2012年11月9日金曜日

歩いてるだけなんてツマンネー

Dubrovnik je jedan od najljepših gradova na Jadranskom moru.
On se zvao Biser Jadrana od srednjeg vijeka.
Ograđen kamenim zidovima, cijeli grad kao da je jedan povijesni muzej,
koji se ponosi dragocjenim spomenicima. Svake godine dolaze turisti iz cijelog svijeta.
Naša Tomoko je došla prvi put u Dubrovnik. Ona se šetala po cijelom gradu,
obišla je sve muzeje, palače i druga mjesta. Kaže da joj se Dubrovnik jako sviđa,
i da je vrlo sretna što je došla ovdje.
Tko dolazi u Republiku Hrvatsku, obvezno posjeti ovaj grad.
Nema nikoga, kome se ne sviđa Dubrovnik. On je zaista biser u našoj zemlji.

 何語でしょー、か?
 クロアチア語です。
 CDエクスプレス セルビア・クロアチア語の最終第20課本文丸写しです。「写し」と言っても、頭の中に焼き付けたものを、ですけどね。それが著作権侵害(かな?)の言い訳になるとは思ってませんが、何かの語学書の文章を記事内に綴る際毎回言っているこれは常に本当のことです。誰かにスゲエと言って欲しいわけじゃなく、己が過去の記事を見返して俺スゲエと言いたいが為に必死こいて暗記しとるんです。勿論ウソです。ただ、ふと昔書いたものを見返してみると、今じゃさっぱり思い出せない文章がずらずらずらーっと綴ってあって、それを目にしたときは俺スゲエ、いや、凄かったなって思っちゃいますね。
 さて俺は何故クロアチア語の文章を書いたのか?
 今回の記事の主題への導入のためなんです。
 実はこの文章、俺はソラで言えます。一度も躓かず、スラスラとってわけにゃあいかないんですが、とにかく、綴りをバッチリ覚えて、且つこれらの言葉を音声でも再現できるようになってます。
 そりゃあもうしつこくしつこく復唱しましたとも。
 俺は今、ようやく文字を綴るばかりの勉強から脱却して、口からも自由に発せられる他言語の学習方法の構築について毎日しつこく考えているところです。
 なんせひとりなんだ。独り。会話で発話の能力を培うことは望めないので、独りでもペラペラになれる奇跡のような勉強法を編み出さんとしているわけだ。
 結構楽しいですよ。
 なっかなか光明が見えてこねえから。
 ああでもないこうでもないってね。
 いつの間にか、冒頭の長文を一気に諳んじられるようになったのは、ああでもないこうでもないを繰り返していた結果なのかなあ・・・。
 ちなみに諳んじられるのは20課本文だけで、それ以前のものはからっきしです。すごく時間をかけて、ゆっくりとじゃないとムリだね。まず課毎の内容を思い返さないといけないし。
 もうこの20課本文は口調で覚えちゃってる。「Dubrovnik」と言ったら、「Dubrovnik je jedan...」と続いちゃう。
 すごく理想的ですよね。厳密には、「理想的な覚え方だと俺が思っている方法の内のひとつ」、です。
 これは、「反射」を利用したくて実践した結果なんです。
 小売の接客業の店員やってりゃ、レジに物を持ってこられたら「いらっしゃいませ」ないしは「ありがとうございます」と言う。
 そんな風な。
 円滑な日々の様々な営みは、「反射」と「習慣」に支えられています。いるはずです。朝起きたら歯ァ磨く。顔洗う。外から帰ってきたら手を洗う。嗽をする。3食摂って、尿意を催せば排尿をし、便意を催せば排便をし、寝る前には風呂に入って、電気消して就寝。朝になったら起きる。
 俺が実践したのは、一文ずつ、つまりはピリオドによって区切られる文章の冒頭の一語或いは二語ほどだけをPCのメモ帳に書き、それ以後綴られているものを思い出しながら諳んじるという発声の訓練です。
 実は、別に会話したくなったわけじゃないんです。ただ、文字だけでなく、音声を用いることででも頭の中の日本語を別の言語にして表現できたらいいなと今更ながらに考えたのがこの訓練の発端でして。
 そしてもうひとつ-忘れないためには、覚えておくためには、二重三重、四重五重の記憶法を用いれば他言語をより強く頭の中に留めておくことができるのではないかと考えたのです。その記憶法として相応しいと俺が思えたものの内のひとつが、「音声で再現できること」だったわけです。
 四重五重とは語感を追求した為出てきた表現なので、本当に五重まで数えられるかどうかわかりませんが・・・とにかく俺が思いついた記憶法とは、こんなものです:
  1. 言い辛い言葉は音節を区切りながら覚える(例: DubrovnikならDub-rov-nik)
  2. 意味の固まりで覚える(例: od srednjeg vijeka=中世から < srednji vijek 生格)
  3. 反射で覚える(上述の通り)
  4. 口調や音韻で覚える(直上の反射に準ずると言える)
  5. 綴りを覚える(文字に起こそうと思うと必要。基本的に外せないことだと思うが、後述するアイルランド語などで特に極めて重要)
 5つ目までいったね。見て判る通り、まったく目新しい行為はありません。これらすべてを利用して覚えようとする行為に意味があるのです。ちなみにこの記事冒頭に出てきたことを鑑みて1.の例にはDubrovnikを挙げましたが、これ自体は特に言い辛い言葉だとは思いません。最近覚えた言葉だと、そうですねー・・・ドイツ語なんですが、die Abschlussprüfung des Sprachkurses(ディー・アプシュルスプリューフン・デス・シュプラハクアゼス=語学コースの終了試験)とder Aushilfskellner(デア・アウスヒルフスケルナー=ウェイターのアルバイト)は、何度言い直してもその度どもりましたね。
 更に今後作れるとしたら、「和訳を見ながら諳んじる」でしょうかね。
 これは行なって至極当然の訓練なのですが、まだやってません。ある言語の文章を読みながら日本語が同時に頭の中に浮かんでいないなんて有り得ないですからね。隣に添えられている日本語文を改めて確認しようという気持ちにならない。
 この訓練は、セルビア語、クロアチア語、ドイツ語、イタリア語、アイルランド語にのみ適用しています。他の言語の学習時に適用できない理由があるのではなく、単に最近勉強しているのがこれらの言語だったからというだけです。
 正しく告白すると、元々、イタリア語を勉強していたとき、効率的に覚えるためにとふと考えついた勉強法でした。思いついたということが重要なのであって、実践第一号の対象となる言語は別になんでもよかったんです。
 最初に思いついたのは、「反射」でした。
 結構効果があったと思います。
 そしてこれを続ける内、声に出すことの楽しさを見出し始め、記憶法として真の効果があるかどうかはともかく、この訓練を勉強の中に取り入れる抵抗はまったくなくなっていったことは大きな利点だったと思います。
 そして次に、「反射」は本当に使えるのか?と、既に語学書を読了していたセルビア語・クロアチア語と、アイルランド語も暗唱できるようになるかしらと、本を読み返してみました。
 前者はうまくいきました。
 後者はイマイチ。
 何故なら、アイルランド語の発音が未だに滅茶苦茶たどたどしく、ほぼまともに身についていないからです。

 ヴィー・ラン・ゲールゲ・エル・シュール・エゲ・アンシン・ウーアル・サ・チャフタン
 bhí rang Gaeilge ar siúl aige ansin uair sa tseachtain
 週に一回、彼の下でアイルランド語の授業が行われていた

 とか

 ゴ・ロ・ミーリャ・アガト・アス・ド・ハルジャス・ヌーアル・ヴィー・メーグ・スタジェール・イ・ンガーリャ
 go raibh míle agat as do chairdeas nuair a bhí ag staidéar i nGaillimh
 ゴールウェイで勉強していたときは本当にありがとうございました

 といった一音節の言葉なら大丈夫ですが、

 アグス・ホサ・シェー・ヘーン・アグ・スクリーアウ・ダーンタ・チリー・ゲールゲ・アグス・チリー・ヴェールラ
 agus thosaigh sé féin ag scríobh dánta trí Ghaeilge agus trí Bhéarla
 そして彼は自分でもアイルランド語と英語で詩を書き始めた

 とか

 ター・スール・アガム・ゴ・ワー・メー・スケーラ・ウェト・ゴ・ルーア
 tá súil agam go bhfaighidh mé scéala uait go luath
 あなたからの手紙がすぐに手元に届けばいいなと思っています

 という多音節語になると、何秒か読み方を考えてしまいます。ところで「bhfaighidh」の読みは上に書いた通り「ワー」だと思うんですが、「oíche mhaith(おやすみ)」の「mhaith」も「ワー」。こんだけ綴りがまったく違うのに読み一緒なんてすごいよね。フランス語に同音異義語が多いという欠点なんてどうでもよくなっちゃうね。どうなってんだアイルランド語、って思わずにはいられないでしょ?誰だってたぶんそう。アイルランド人だっておそらくそう。でも現代に生きるアイルランド人にとやかくゆーのはやめたげて。こういった不条理な綴りを確立させたのは彼らではないのだから・・・。
 CDは相変わらず聴いてません。
 だって、まだるっこしいんだもん。
 トロイ。
 自分でスラスラ諳んじられるようになるのが目的なのに、初学者向けのダラダラと小休止の連続する発音聴いてられんっての。「普通のスピード」とか言われる読みでもかなり遅く感じる。
 しかし今考えてみると、トロイ分、どう発音されるか気になる語の確認にはもってこいなんだよな。しまったなぁ。
 しかしなんとか諳んじようと努力したことは他の言語の勉強にあたってのこととなんら変わらないので、暗記はできました。
 「Dubrovnik ...」の文は、最終課にしてはカンタンだなと感じていたので良い達成感を得られなかったのですが、アイルランド語(ニューエクスプレス アイルランド語; 扱っているのはコナマーラ方言)の第20課を暗唱できるようになったときには本当に嬉しかったですね。

Go raibh míle maith agat as do chairdeas nuair a bhí mé ag staidéar i nGaillimh.
Níl féidir liom a rá cé chomh buíoch díot is atá mé.
Mura mbeifeá ann, tá mé cinnte nach n-éireodh liom Gaeilge a fhoghlaim.
Tá beagnach coicís agam ó tháinig mé ar ais abhaile don tSeapáin.
Airím uaim na laethanta a bhí agam i nGaillimh - seisiúin ceoil sna tithe ósta, piontaí Ghuinness
agus mar sin de. Ba mhaith liom dul ann arís an samhradh seo chugainn.
Abair le do chairde agus do mhuntir go raibh mé ag cur a dtuairisc.
Tá súil agam go bhfaighidh mé scéala uait go luath.

Mise le meas,
Mai

 ・・・という本文でした。
 やー、すごいですね。俺。なんて発音したらいいのかわかんない言葉だらけなのに覚えてる。ま、今までそうやって勉強してきたんだけども。
 そう、不思議だった。
 たとえばベトナム語には声調があって、それらが正しく再現できる自信がないし実際聴いても弁別がよくわかんなかったので口に出すことは諦めて、ひたすら文字だけを頼りにベトナム語は勉強していたわけだけど、なかなか身につかなかった(そして今ではパーっと忘れた)。
 アイルランド語に関してはもっとヒドい-そもそもなんと読むのかわからない言葉だらけなのだ。一応、読みについては学習したが・・・ニューエクスプレスの解説だけじゃざっくりもざっくり、例外的な発音が殆ど身につかない。そしてアイルランド語の言葉は基本的な読み方を知っているだけでは太刀打ちできない言葉が本当に多く存在する。・・・ま、かの名著・「アイルランド語文法 コシュ・アーリゲ方言」を持ってるんだから、それと併せて学習せーよって話なんだけどね。メンドいじゃんそんなの。
 そんな、読み方のわからない言葉の洪水に飲まれそうになっても、息継ぎは必ずできており、溺れてしまうことはなかった。不思議なことに、何故だかガンガン暗記していけたのだ。
 人の記憶って、一体どういう仕組みになってるんだろうか・・・。
 これが解明できれば!そう思わずにはいられない。何学で扱ってんのかな、これ。
 さて、上で挙げた4つ(プラス1つ)の記憶法、人間、他言語を学習する際には無意識に実践しているものなのかもしれません。俺だってこれらを活用して勉強していたのかも。
 ただ、実践しようと意識して学習に臨むと、効果の程は実に明白です。
 そしてなんと、この方法を続けている内に、次第に綴ることが億劫になっていきました。この俺が!綴ることが億劫にだと!信じられないです。自分で自分が。
 だってそんなことせんでも頭に入っちゃうんだもん。
 まぁ実際綴りが覚えられているかどうか確認するときにはタイプするけどね。
 ノートにはもう1ヶ月くらい何も書いてないなぁ・・・。
 ただ実を言うと、こうして訓練を始める前から、ノートに何かを書くことは億劫になってた。タイプした方が早いじゃんと。勿論字を書くよりタイプする方が早く文字を示すことができるなんて10年くらい前から悟ってたことだけど、それでも俺は実際にペンを持って文字を紙の上に綴ることが好きだった。それがここ最近遂に面倒臭く感じてきたわけだな-っつっても、特にラテン文字については、なんだけどね。上で俺、最近何語勉強してるって言ってた?クロアチア語、イタリア語、ドイツ語、アイルランド語はどれもラテン文字を正書法に持つからね(セルビア語はキリル文字。前書いた覚えがあるんだけど、俺キリル文字好きじゃないんだよね。だからそもそも書きたいとあんまり思わない)。とりあえず今は特にタイピングだけで、何かを綴ることに対する欲望は満たされてるから、これでいいのだ。
 訓練を始める前に、そして今もPCで易易とタイプできない文字を正書法に持つ言語を勉強しているときにはペンを握っていた。即ち、タミル語、チベット語、タイ語。特にチベット語はようやくキーボードをインストールして、フォントはそれ以前からかなり色々PC内に既に持ってたのに何故か表示されないのでどうしようもない。Lexilogosのチベット語オンラインキーボードには欠陥があるし・・・「チベット語 言語学習日記」を書いてたときからわかってたことなんだけど、いい加減鬱陶しくなってきたので利用をヤメた。いやよくできてるとは思うんだけど、ねぇ・・・そう思えるだけにものすごく勿体無いんだよな、あれ。
 とまあ色々と、「確実に」、「素早く」、「後々忘れ難い形で」、覚えられる方法を今模索しとるわけです。
 今後何か画期的な、それこそ奇跡のような記憶法が確立させられたとして、それが為されたと判断できるのはどういうときだと思います?
 ・・・一切前知識のない言語をスラスラと覚えていき、すぐ己の言葉として用いることができると自他共に認められるとき、これ以外にはないでしょうね。
 そこまで記憶法を追求しなくても、とりあえずある程度の成果は出てるんだからいいじゃんと考える自分もいますが・・・究極が欲しいですね、やっぱ。
 急がば回れとか石の上にも三年とか、拙速を諌める言葉がよく聞かれますが、どうせできなかった人の言い訳なんだと思えば、確かにそうでもあるんじゃないんですかね。
 俺は近道したくてしょうがないです。
 でも、近道の途中に立ち塞がるすごく大きな壁を「近道できるから!」とせっせと取り壊していくのと、ただ黙々と歩けばいいだけの遠回りの道を往くのとでは、・・・結果的にどっちが好いのでしょうかねぇ。
 ただひとつ言えることは、俺は歩いてるだけなんてツマンネーことは真っ平御免だと。

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