2012年2月3日金曜日

もっとレビューを!

俺はキレた!

 もっとレビューを!
 ネット通販は実に便利なものだが、細心の品定めの機会にはとにかく向いていない。
 たとえばCDで言えば、所望の対象の品番までが判明していて、それで特定されるある商品そのものを買わんとしている場合は、品定めという段階はまったく不要だ。
 しかし、たとえばあるタイトルが欲しいとして、その名の商品が同一タイトルのまま何度も再リリースされている場合には、ブックレットのつくりやトラックリスト、そして特に音質の違いなどが気になるものだと思う。
 ネット上で判明することもあるが、本質的に作品としてのCDに収録されているものの芸術性に関係があるとは言えない、謂わば限りなく「オマケ」に近いようなものである、CDのパッケージに使われている容器のアートワークやブックレットの内容に関しては、実際手に取って開けてみるまでわからないことの方が多いだろう。
 改めて考えてみたが、商品レビューと音源レビューは区別するべきだ。
 個人の好みの差に訴えるものに評価をつけること自体がバカらしく、本当は参考になどならないんじゃないかと思い始めてみれば確かにそう言えんこともないんだが、それはそれで、特に文才のある人間が記すものは一読の価値があるものなのかもしれない。
 それに、こんな話もナンだとは思うものの実際ネットに蔓延っているが故に敢えてしてしまうが、音楽がCDに収録され一般的に販売された時点で、そのデータはデジタル社会の恩恵を享受しそれを楽しんでいる人間たちの間で、合法であれ違法であれ共有されることが決まってしまっているようなもの。 
 不特定多数の人間が書いたレビューを頭と目を痛めて時間を費やしながら読むよりも、どこぞよりダウンロードしてさっさと聴いて好きか嫌いか判断した方が何もムダがなくていい。気に入らなければとっととデリートすればハードディスクにもやさしい。
 そこで真に価値を帯びてくるのが「商品レビュー」。
 ブックレットは全何ページ構成で、中の写真はどういったものが使われているかとか、歌詞の字体はなんだとか、CD製作に関わった人間たちを紹介するクレジットはどうなっているかとか・・・。
 最近のダウソ音源が収納されたフォルダには、ジャケの表 / 裏表紙の画像が同梱されていることも多い。デジタル配信のみで聴ける新作の場合だと、CD化された場合には使われるであろう、ジャケの表紙にあたるアートワークの画像が一緒に入っていたり。
 音源だけだと味気ないと判断する人がそういうことを行なっているんだろう。
 しかしその程度では商品としての詳細はわからん。トラックリストとプロデューサーは大抵書いてあるとして、あとはバンドメンバーくらいだ。レコーディングスタジオとかも書いてあったりするかな?どの道せいぜいこんな程度。
 製作者として、ネットで細々(こまごま)と公表している連中も皆無に等しいはずだ。
 購入した人間の誰にでもできる行為が、「商品レビュー」なんだ。
 ちょっとレビューって書いてみたいけど、俺うまいこと文章書けないしなぁ・・・なんて人でも、商品レビューでなら多少なりともありがたがられるんじゃないだろうか。
 Amazon.co.jpでたまに見かけるのが、「既に色んな人がいいこと書いてるから、俺は異なる視点からレビューします」みたいな人。ああいう気の利いたことができる人はホントにエライ。
 「商品レビュー」は、ネット通販がすっかり一般的になった現在だからこそもっと関心が向けられるべきことなんじゃないだろうか?即ち、実際手に取れないものを買うんだから。
 自分の元に届くまでは、架空の存在を購入しようとしているも同然。在庫ありますとか言っていてもウソかもしれないし、「画像のものと現物は異なる可能性があります」だってかなり強引なエクスキューズかもしれない。なにせネットじゃ現物の正体がわからない。
 まぁ、それは極端な言い方かもしれないが、なんにせよそもそも手に取れないものを買うことには一抹の不安がつきもの。
 小売店などでその場で物品を手に取り、カネを支払って購入する際、たとえばそれがCDなら、ネット上と同じくブックレットの中身を確認しながらそれができるわけではないのにそういったことが気にならないのは、実際に触れる安心感が強く作用しているからだと俺は思う。
 己の元に来るまで実際には触れないものをネットで買わんとしている人に提供した情報のおかげで、実際触って購入している人間以上にその人は購入予定の商品について詳しいなんてすごく面白いじゃないか!
 俺はこれから新しく買ったCDなんかについて書くとき、クレジットやらも細かくここに書いていこうと思います。
 語学書なら、例文の特徴、日本語による文体の特徴、構成の特徴、単語リストの有無、挿絵なども含めた全体的な雰囲気、付録の有無とあるならその内容・・・といったところかな?
 俺は自分が持っている語学書のほぼすべてを読了していないので、こういうことがソラで書ける本は今のところないな・・・。たとえば今やっているチベット語、ドイツ語、イタリア語、ベトナム語は、学習が終わったら商品レビューをしてみようと思う。昔買ったものについては、もしまたそれを用いて学習することがあって、且つそれを読み終えられたならやってみる。
 CDは・・・どうしようかな。たまに昔買ったやつも聴きたくなることがあるし、そういうときにはやってみようかな。
 エラげなことをしようとかいう気では全然なくて、正直、こんなことをすれば話題が増えてイイな、ってのも大きいんですけどね。
 ただ、動機の根幹は、実際そういうことをやってくれる人がいたらイイのになと、かねてから思っていたからです。
 今日語学書の検索をしていて、気になるものがあったからどういう内容なのか知りたかったのに、全然それについて情報がないことにキレちゃったんです。前々からそんなこと数え切れないほど経験していたのに、何故か今日は我慢ならなかったんですよネェ。勢いってこわいですね。
 そういう人がいるとイイなと思っていて俺が発信する側になるってのも意味わからん気がしますが、他人として存在しているか、俺が「そういうイイ人」として存在するようになるか、誰であれそういう人がいればという願望に於けるその担い手には、特定の適任者はいないってことなのかもしれませんね。

2012年2月2日木曜日

می شود من اين نزديکيها کتابی بهتر برای درس فارسی بخرم؟

なんか前回より覚えやすかったような気がする。

 というか俺、7課みたいな道を尋ねたり教えたりっていう文章がニガテなんだよね。大学でフランス語やってるときも面白くなかったし、CDエクスプレス ペルシャ語でもある道案内を主軸に据えた課も覚え辛かった。まぁ、あっちは命令法や接続法を駆使していて、それを伴った構文に慣れていなかったからってのもあるんだが。

bài tám - “Gia đình anh có mấy người?”

- Gia đình anh sống ở đâu?
- Trước đây ở Osaka, còn hiện nay ở Tokyo.
- Gia đình anh có mấy người?
- Có bốn người: bố mẹ, em gái và tôi.
- Bố mẹ anh làm gì?
- Bố tôi là bác sĩ, mẹ tôi là người nội trợ. Còn em gái tôi là sinh viên năm thứ hai.
- Bố mẹ anh năm nay bao nhiêu tuổi?
- Bố tôi năm mươi, còn mẹ tôi bốn mươi tám.
- Mọi người trong gia đình anh đều mạnh khỏe chứ?
- Vâng, cảm ơn chị.

 本曰く、この課の目的は「数の言い方」と「職業の訊き方」を覚えることらしい。後者については解説のページでちょびっと補足があっただけなんだが・・・。
 あ、ちなみにもう日本語書くのメンドくさいんでなしで。
 7課で「50メートル=năm mươi mét」と「10分=mười phút」では「10=mười」の声調が違うことに言及したが、やはり「1の位×10の位」という表現での「10」は「mươi」になるとある。理由は書いてないが。ちなみに会話では省略されがちなんだとか。eg: 77=bảy mươi bảy / bảy bảy。
 上でペルシャ語の話題を出したところで、オマケで例の道案内の文。

هفت - با کمال ميل

اقا، ببخشيد، اين نزديکی ها پستخانه نيست؟
چرا، يکی در خیابان رستگار هست
از اينجا دور است؟
نه، پیاده فقط پنج دقيقه راه است
می شود راه را نشانم بدهيد؟
با کمال ميل. از اين خیابان راست برويد تا چراغ راهنما بعد بپيچيد دست چپ تا به بانک ملی برسيد. پستخانه رو به روی بانک است
خيلی متشکرم
خواهش می کنم

- áqá, bebaxšid, in nazdikihá postxáne nist
- čerá, yeki dar xyábáne rastgár hast
- az injá dur ast
- na, pyáde faqat panj daqiqe ráh ast
- mi shavad ráh rá nešánam bedehid
- bá kamále meyl. az in xyábán rást beravid tá čeráqe ráhnemá ba´d bepičid daste čap tá be bánke melli berasid. postxáne ru be ruye bánk ast
- xeyli motašakkeram
- xáheš mi konam

 ここだとアラビア文字はイタリック体にすると何故かフォントが崩れる(فارسی、こんな感じ。ヒドいよねー)ので直立させてます。また、ハイフンやピリオドは、左から書く言語と同じように前者を文頭に、後者を文末に置こうとしても想定の位置に登場してくれませんので省きました。アラビア文字やヘブライ文字を使ってここで文章書こうとするとスンゲー苦労すんですよ・・・。システムの処理が基本的に左から書かれる文字の表記法に準じているからなんですが、メモ帳みたいに右から書くことも選べるように何故なっていないかなぁ。ここで右Ctrl + 右Shift押しても別に何も起こりませんからね。
 また、本文下段のラテン文字転写についてですが、iとuはマクロン(āの上の記号)がついてなくても長音を示します(「nist」、「in」は「ニースト」、「イーン」、「dur」、「ru」は「ドゥール」、「ルー」)。
 この文章のラテン文字転写では、長音はアクサン・テギュ(áの上の記号)で示しています。使ったのはチェコ語キーボード。マクロンはマオリ語キーボードで打てるけど、そうするとハーチェク(čの上の記号)のタイプがシステムになくて困る。キーボード切り替えつつなんてめんどっちいしね。まぁ、重子音表記でひとつの音を表してもよかったんだけど・・・(čがchとか)。
 俺、本の内容すーぐ無視して自己流に走りたがるクセに、あるものに関しては本からの教えを絶対に順守しようとしたり、自分でも意味分からん性格してますわ。
 ホントはiとuにもマクロンなり付けたいんだけど、本でこう書いてあったからね~・・・。でもこれに今のところは納得がいっているのは、ペルシャ語よりも先にやっていたサンスクリットのラテン文字転写で、同言語ではeとoは必ず長音であるが故に改めてマクロンが振られてなかったことに影響されている。ちなみにペルシャ語だとeとoは必ず短音(標準語の基になっているテヘラン方言以外では知らんけど)。こういう現象、面白くて好きだ。iとuは、サンスクリットだと短音にも長音にもなる。
 さて道案内を扱ったこの文、聞き取ってこうやって書けはするんだけど、内容を理解しつつそれができているかというと、こればっかりはほぼ機械的だね。
 こんな短いのに?-こんな短いのに、なんですよ。ホントダメ、道案内は。
 たぶん、日常生活でさっぱりできないからなんだと思います。
 数が多用されてる文とかも苦手だなぁ。覚えられないもん。
 あ、ちなみに上の文での命令法は、「ببخشيد」、「راست برويد」、「بپيچيد دست چپ」、接続法は「می شود راه را نشانم بدهيد」と「تا به بانک ملی برسيد」。
 「ببخشيد」は「すみません」ってだけの意味なんで命令法とかなんだとか意識することもないんだけど、ペルシャ語では普通、動詞が文末に来るので、「بپيچيد دست چپ」の後に文が続くってのが、初めて勉強した当時は奇妙に思えたんだよね。
 接続法、「تا به بانک ملی برسيد」は、「تا」が接続詞だから、その後に来る動詞は接続法、と、日本語を介して直感的に解せたところもあるんだけど、「می شود راه را نشانم بدهيد」がねー。
 「می شود」~なんとかかんとかで「~ができる」って表現なんだけど、たとえばフランス語だと「Est-ce que c'est possible que vous me montriez ...」みたいに接続詞「que」が入るところが、ペルシャ語だとなんにもないからね。なんで動詞が並んでるんだ?って感じで、納得するのに時間がかかった。
 そういやさ、道案内も数も関係ないけど、ペルシャ語について未だにわかんねーことが。
 上に「نزديکی ها」ってあるでしょ、「ها」は複数の指標なんだけど、単語によってこれがこうやって離して書いてあったり(この場合、これが直前の語に隙間なく接続されていると「نزديکيها」になる)くっついて書いてあったりする。たとえば「イラン人たち=ايرانيها(iránihá)」とか。本来は後者の形であるべきなんじゃないだろうか。
 この「ها」、俺は上の文章だと直前の語とは離して書いたけど、これには理由がある。
 本だと直前の語と隙間なく隣接していて、その直前の語の末尾に「ـی」があると、これがこの形-語末形-のまま直後に「ها」を従えてるんだけど、デジタルで書くとそうはいかないんだよ。隣接させると必ず「ـی」は語末形から語中形に変形して、「ـيـ」となってしまう。
 いや実は、隣接させながら「ی」の語末形を保つ方法がないこともない。
 手順はこうだ。

 ①نزديکيها -複数指標を加えながら一旦すべての文字を連結させて書く。
 ②نزديکیها -指標直前の「ی」をボールド体にする。すると独立形になる。
 ③نزديکیها -ボールド体を解除する。

 こうすれば語中にあれど「ی」は語末形で保たれます。ちなみにこの処理をした単語と同じ行で改行すると元通り語中形に戻ってしまうので、予め改行しておかなければなりません。また、このフォントはArialです。他はTimes New Romanだけ試してみましたが、Times New Romanだとこの処理は成功しませんでした。うーん?
 単語内の字母をボールド体にすると独立形になってしまうことは知ってたんだけど(故に単語に含まれる特定の字母を強調のためボールド体にすることが、アラビア語にはできない)、こういう風に利用できると思いつけたのは我ながら冴えてると言いたい。
 、実はコレ、まったくムダです。
 何故ならこの下書きの中でのみ処理が生きているものに過ぎないから。
 プレビューでは当たり前のように「نزديکيها」という形になってたんで、投稿したら当然上記①の形になってることでしょう。
 まぁ、つまり・・・誤植?

2012年2月1日水曜日

・・・よ?

さあ叩き潰されろ・・・よ?

 Abortedが最新作・Global Flatlineから、Источник Болезни (The Origin of Disease)のビデオを公開!
 ・・・まあ、1月10日なんですけどね、公開日。昨日Century Mediaチャンネル観ようとアクセスした際、遅まきながら知ったわけでして。

現行ラインナップ-ビデオ・Источник Болезни (The Origin of Disease)(Global Flatline収録)より

Sven "Svencho" de Caluwé - Vo.
スヴェン・“スヴェンチョ”・ド・カリュウェ
ערן סגל a.k.a. Eran Segal - Gt.
エラン・セガル
Michael Wilson - Gt.
マイカル・ウィルサン
JB van der Wal - Ba.
イェー・ベー・ヴァン・デル・ワル
Ken Bedene - Ds.
ケン・ビディーン

 ※S
 Sven=オランダ語読み; de Caluwé=フランス語読み。
 で、Svenchoは取りあえず日本人として見たまま。ステージネームの筈なのに、彼をこう呼んでいるインタビュアー皆無だよわけわかんねえ。
 ・・・今更だけど、バンド名からして英語、歌詞も英語で書いてる連中って、名前は機械的に英語読みするべきなのかなあ?
 英語読みだと「スヴェン・“スヴェンチョウ”・ダ・カリューウェイ(sven "sven-choh" də kə-lyoo-way)」などになると思ふ。

 ※E
 ヘブライ語読み。英語読み「エラン・スィーガル(e-rən see-gəl)」。

 ※M
 meye-kəl wil-sən

 ※JB
 オランダ語読み。英語読み「ジェイ・ビー・ヴァン・ダー・ワール(jay bee van der wahl)」。

 ※K
 ken bi-deen

 以前Abortedが新作出すぞってので話題にした際紹介したビデオではベーシストの出演が認められなかったんですが、ちゃんと写ってたんですね。なかなかキレてる感じでかっこいいじゃないですか~。
 あとKen Bedeneの苗字の読みは今に至るまで結局わからずじまいなんですが、まぁたぶんこれで合ってるでしょう。英語読みなら。たしかイギリス人です、この人。というかベルギーのバンドだけどベルギー人はSvenchoだけなんですよね。Eran Segalはイスラエル人、Michael Wilsonはアメリカ人、JB van der Walはオランダ人です。欧米に於ける多国籍・多民族混合バンドは珍しくありませんが、ここまでバラバラなのは稀なんじゃないでしょうか。
 さてさてEuropean Leaders of Gore”ことAbortedの待望の最新作から、アルバムの全体像に思いを馳せるためのコマーシャルトラック・・・。
 かっこいい・・・ね、相変わらず。
 しかし・・・気づいた?
 ギターの音ちっちぇえ~!
 個人的に、元々ゴアってよりは普通のデスメタルに近かった印象のあるバンドでしたが(というかMetallumでもWikipediaでもデスメタルバンドとして紹介されている)、それはまあ別にいいとして、ミックスを担当した奴の頭大丈夫か?ってくらいゴリンゴリンに弾いて掻いて刻んでグチャグチャの爆音を響かせるギターの存在感の強烈さが好きで、そこに惚れ込んだのになんかスゴイこじんまりとしちゃってますよね。
 楽器ごとのその鳴りにはムダがなく、特別耳に残りやすいかっこいいものもそうでないものも、あらゆるフレーズが聞き取りやすいことは、大人しく堪能するにはもってこい・・・しかしそうやって楽しむことのできるバンドはもう既にゴマンといます。
 Century Mediaという一流メジャーレーベルに籍を置きながらも超グチャグチャで、アンダーグラウンドとオーバーグラウンドという二界いずれにも顔のきく数少ない王者のひとりだったのが、これじゃずっと昔からメジャーだったCannibal Corpseなんかの方がまだエグイ。
 各人のフレーズの紡ぎ方というか、かっこいいと思える音の並べ方を思えば、相変わらず凡人には考えつけないような非凡なセンスが発揮されていますが、そういったことをやる連中が出す音を爆音基調にヘンテコなバランスで聞かせてくれるところが俺は好きだったのに。
 かっこいいのはわかる!色んなスゲエフレーズがてんこ盛りだ!・・・でも・・・でも・・・グチャグチャでちゃんと聞き取れん!
 ゴアの要素があるバンドの魅力はこれなんだよね。得体は知れないけどかっこいいものが集積しているのはなんとなく察せられる、だからクセになる。何度も聴きたくなる。
 いや、このИсточник Болезниだって、何十回ものプレイに耐えられる、衰えがたい輝きのある曲だと思うよ。
 だけど上で言った通り、お、かっこいいことやってんな、じっくり聴こう・・・と、落ち着きを以ってそのかっこよさの正体がすぐに知れて、まるでその魅力を研究するかのごとく大人しく聴きたくなるようなバンドはもう他にたくさんいる。
 音作りの上でのこの路線はレーベルの意向によるものなのか?Abortedのメインメンバーたちの好みの変化が原因なのか?それともプロデューサーの所為?
 こういう曲をアルバム単位で聴くなら、若いテクデスバンド聴くかな、俺だったら・・・。
 なんだかちょっとガッカリしたというお話でした。

2012年1月29日日曜日

ベトナム語の勘 / ジャンル名: Lamb of God

ここに至り大分覚えづらい文章群が登場。

bài bải - “Ở gần đây có siên thị không?”
第7課 - 「この近くにスーパーマーケットはありますか?」

- Xin lỗi chị, chị có biết Viện Bao tàng Lịch sử ở đâu không?
すみません、歴史博物館の場所をご存知ですか?
- Anh đi thẳng, đến ngã tư thứ hai thì rẽ trái, rồi đi tiếp khoảng năm mươi mét thì đến. Nó ở bên phải.
まっすぐ行き、2番目の交差点に着いたら左に曲がって、それから50メートルほどそのまま行きます。博物館は右側にありますよ。
- Từ đây đến đó có xa không?
ここから遠いですか?
- Không xa lắm. Đi bộ chỉ mất khoảng mười phút thôi.
そんなには。歩いてたった10分ほどです。
- Cảm ơn chị. À, chị ơi, tôi muốn hỏi thêm một chút. Ở gần đây có siêu thị không?
ありがとうございます。あっ、もうひとつお訊きしたいのですが、この近くにスーパーはありますか?
- Có, có một cái đằng kia.
ええ、あちらの方に1軒ありますよ。
- Cảm ơn chị nhiều.
どうもありがとうございます。

 まず戸惑ったのが、「chị có biết Viện Bao tàng Lịch sử ở đâu không?」という文。
 たとえばフランス語なら「Connaissez-vous où le Musée d'Histoire se trouve?」などになる。つまり、疑問詞が主文の主語と動詞の直後に来るわけだ。
 ベトナム語の文だと、「どこ」にあたる言葉は「đâu」、「ある」は「ở」で、見ての通り疑問詞が副文の文頭に来ていない。
 日本語話者のくせに、これまでの人生を通して欧米の言語に長らく触れていたせいか、日本語に似た語順の他言語に戸惑うこの滑稽さ!
 次、この課で頻出している「đến」について。
 本を見ながらここの和訳を綴ったわけではないが、その内容に影響された訳もある。「đến ngã tư thứ hai thì rẽ trái」の、「~に着いたら~」がそれ。これは本なしではいまひとつ俺にはうまい訳ができなかったと思う。
 というのも、フランス語で言うところの「quand=~したとき」とか、「et=~したら」というような繋ぎの言葉が、この文での最初の動詞「đến」と、次の動詞(+副詞)「rẽ trái」の間にないからだ。謂わば、「着く曲がる」と言っているようなもの。
 こういう動詞の運用は欧風でもないし日本語的でもない。接続詞などは介在させずとも、コンマを入れるなどしていてくれれば、それがうまい解釈の助けになりあるいは「着いたら」というような訳が俺にもできたかもしれないが。
 この文の直後にある、「rồi đi tiếp khoảng năm mươi mét thì đến」についても同じ。「đi tiếp=行き続ける」と、やはり語末の「đến」の間に一呼吸がない。ただ、「50メートルほど行き続けて着く」と日本語で考えてみると、別に意味が通じない文章になっているわけではないんだが・・・ここらへん、ベトナム語を他言語での言い方に置き換えた場合の表現に気を取られすぎているせいなんだろうか?
 あとは、「từ đây đến đó」の「đến」。単語毎に訳すると、「~から・ここ・着く・そこ」だが、現在の位置から目的地までの距離を表現するなら、「ここから」に続く言葉は「そこまで」ではないだろうか?しかし、「đến」に「~まで」という意味があるとは説明されていない。 
 本当に、「~から・ここ・着く・そこ」としか解釈できないのだとしても別に問題はないんだが、なんだかベトナム語はただ言葉を並べているだけの原始的なつくりをしているという印象を受けてしまう。これにしたってたとえそうだとしても問題があるわけではないが、これも、単にこういった言語の学習経験がないが故の戸惑いにあたるんだろうか?
 これで十分理解され得る意味を持つベトナム語であろうとも日本語としては不自然なのできれいな形になるよう訳してみると、「ここからそこに着くまでは」などが和訳のひとつの例としてもっともらしいものになると思う。
 ベトナム語でもこういう風に言うことは可能なんだろう。
 しかし「~から・ここ・着く・そこ」で十分らしい。
 こういう単純な構造が適用されている様々な表現があることだろうし、非常に簡易で学習しやすいと言えんこともないんだが・・・なんだか落ち着かないし、落ち着かない内は、「ベトナム語の勘」が完成されていないということなのかもしれない。
 本に倣った訳といえば、「đi bộ chỉ mất khoảng mười phút thôi」の「歩いて~」もそうだ。
 これは「10メートルほどだけ歩いて(ください)ね」と解釈しても大してその意味に違いは生じないんだが、本で言っている通り、「歩いて=徒歩によって」と解釈するのが正しいのだろうか?本では言い回しをベトナム語での本来的なものから少々変えているのだろうか?これは著者の意図するものなので俺が考えたところでわかるわけもないが。
 こういった、文章の作成にあたって初めて知る構造がいくつかあったわけで、覚え辛かったのだ。何故なら、「ベトナム語の勘」がない今は、覚えるには単なる暗記をする他ないからである。
 当然だが、ベトナム語の音読を聞いて、頭の中では同時にその和訳が浮かんでくる。
 たとえば、「Đi bộ chỉ mất khoảng mười phút thôi.」・・・ここで脳内に「歩いて」うんたらと出てきてしまったら、単なる「歩く」ではなく、「歩い」に手段を示す「て」を意味する言葉が何かついていたかと考えてしまう。単純に聞こえた通り書いていければいいんだが、何分慣れていない今はそうもいかないし、それでは本当に単に機械的に課題をこなしているだけのようでつまらなさすぎる。それに、昨日は、聴解の際は「暗記している内容は関係ない」と書いたものの、やはり、暗記は自然と活きてくる。むしろ機械的に聞き取って綴っていく方が俺にとっては何倍も難しい。
 このベトナム語文では、「歩いて」にあたる言葉は文頭の2語で完結している。そして「歩く」の直後に出てきているのは見ての通り「chỉ」、「chỉ ... thôi」という1セットで「ただ~だけ」を意味する副詞だ。
 次、覚えるのに苦労したものではないが、「50メートル=năm mươi mét」の「10」は「mươi」なのに、何故か「10分=mười phút」の「10」は「mười」であることに納得がいかない。これはおそらく、基数の10の位として用いられる際、「mười」の声調が変わるという法則か何かが存在しているせいなんだと思うが・・・誤植じゃなけりゃね・・・。
 ニューエクスプレスは、CDエクスプレスもそうであったが、2課終える毎にページを2枚使った練習問題が出てくる。2課毎に難度が徐々に高くなっていくと言っていい。
 ここ7課から、遂に本格的なベトナム語の勉強に入ったのかと、始まったばかりで既に少々及び腰である・・・。

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