2011年9月10日土曜日

新しさが感じられるうちに

 だんだんとDIR EN GREYDUM SPIRO SPEROに対する評価が固まってきました。
 「どう聴けばいいか」に気づくと、一点だけでなく全体に対する見方が生じて、作品を構成する諸要素それぞれへの細切れの感想が頭の中でまとまるようになってきました。
 近日中に語りが始まるかと。
 CDレビューサイトって実は憧れなんです。
 でも俺は見識が狭い上にただひたすら好きなものだけを聴ければいいので広めようとも思ってないし、「聴いたら書かねば」なんて考えるだに億劫なのでレビューをメインに据える気はないのですが、レビューで優秀な記事を一本書くことができれば相当かっこいいはずです。
 これまでいくつかレビュー記事がありましたけど、まぁ俺は前書いた通り超せっかちなので、一度聴いちゃうともう感想を書いてしまっていて、で、後から読んでみるとてんで的外れな記述があったり。自認してます。
 流行り廃りは追いかけない主義ですが(気にならないわけではなく、目移りしてる内に物欲に神経ヤラれそうだから)、自分の中の流行り廃りには敏感です。
 たとえば今なら、まだ感想を書いていないCDとしてはDUM SPIRO SPEROやIn WavesTrivium)なんかを主に聴いているわけですが、それは買ったばかりだからです。
 当たり前っちゃ当たり前なんですが、新作であるが故に「熱いうちにいただいている」わけではなく(実際DUM SPIRO SPEROなんか発売後1ヶ月近くしてから買いましたし)、俺の中で新しさが感じられるうちに堪能しきってしまおうと聴いているわけです。
 そして感想をさっさと書いてしまうのは、俺の中に初めて生じた、一応その時点では固まった形である感想が新しい内に外に吐き出さんと狙ってのことです。
 まぁいつか、他に持っているCDについてもずらずら書けるようになれるといいですけどねぇ。
 内容全然知らずに買ったCDでも、買って後悔したってのは俺、今のところひとつも持ってませんし、今でもどれでも聴き返せますし、楽しめる自信があります。
 基本的に、CD買う前にどんな曲が入ってるかよくわかってるのはアニソンだけですしね(笑)。
 最近の洋盤は発売前全曲試聴!なんてことを公式にさせてくれる機会が設けられてたりしますが、大抵発売された後にそういうのがあったと知ることになってます、俺の場合(笑)。

 余談ですが、検索ワードに「カメラ CAELUM」ってのがありました。
 運の悪い事に、ウチのサイト内のBelinda CarlisleHeaven Is a Place on Earthについての記事である、Caelum a Nostris Factum(kaélum ā nóstrīs fáktum; "Heaven Made by Us"; 歌詞にある、we'll make heaven a place on earthという一節から)がヒット。
 正確にはCaelum a Nostris Factum / In Waves特典DVDというタイトルで、このDVDに収録されているスタジオライブについてカメラワークが云々言っていたので、「カメラ CAELUM」で引っ掛かっちゃったわけです。
 さぞかし落胆したことでしょうねえ。
 すいませんねえ。

2011年9月9日金曜日

D.C. CooperがRoyal Huntに再加入!!!

 3日ぶり?
 なんか1日空けちゃうだけで次の日も興が乗らなくて、そのまま今日まで更新なし。
 このまま記事書くのやめちゃうのかななんて自分でもこわくなったり。

 でも話題ありゃ書くんですよオリャー。
 話題なかったの。
 ギリシャ語の転写しかタイプすることなかったの。
 「話題候補」として挙げたやつどれかについて書ければよかったんだけど、どれひとつとしてそれなりの長さのある記事一本分として語ることがまだ足りてないんだよな~。
 そして既に語る予定としてその名の挙げられたものたちを差し置いて、新たな、そして絶対に取り上げておかねばならない大注目のニュースが更新していない内に届いてきたわけだ!

D.C. CooperがRoyal Huntに再加入!!!

 語ることはない!ないが、これについて俺がどんだけ驚いたか、どんだけ喜んだかを、まったくその衝撃が誰にも伝わることがなかろうとも、文字に変えてここに綴っておかなければならない!
 これは最早義務だ!
 永遠のD.C. Cooperフリークとしての!
 思えばRoyal Huntの3rdアルバム・Moving Targetで初めてその歌唱を聴き、つべで初めて動いている姿、歌っている姿を見てからというもの、私は永遠の彼の虜となったわけです。
 ホモじゃないんです。
 むしろホモだったらその内に飽きてたかも。
 ホモだったら菊に茎を云々って感じでしょうが、俺は歌手としての彼がたまらなく好きなだけなんだ。
 正直顔はそんなにかっこいいと思わないし、ガタイも大してよくない。
 だけど歌い手としてステージに上がったときに披露する、歌と身体の動きを併せたドラマティックで躍動感溢れるパフォーマンスといったらもう!
 助走なしで狙った高音に到達できる凄腕サンですが、それが故にワリと淡白に聞こえることがなくもないです。
 うまいのはわかるけど、それで?みたいな人、どんなジャンルにでもいっぱいいるでしょ。
 ともすれば時にそういう風に見られがちなボーカリストでもあると思うんです、D.C. Cooper。
 そういう観点からすれば、D.C. Cooperよりも心に響く歌い方のできるシンガーってのは、人によってはHR/HMでも枚挙に暇がないのではないでしょうか。
 俺はあまり開拓しない人なので名メタルボーカリストの名を挙げよと言われても数が知れてるんですが。
 だけど彼はあのパフォーマンスがね!
 掛け値なしの素晴らしさ。
 見る人によってはこっ恥ずかしいなと思うかもしれない。
 けどそれがいいんじゃん!
 いつの時代もヒーローってのは堂々としたナルシーですから。
 まぁ程度はわからないながらも、やっぱり俺イケてるからこんな動きしてもサマになるよと思っちゃってるかもしれない。そう自負すらしているのかもしれない。
 彼はキメに合わせてステップ踏んだりするんだ。
 俺はライブ楽しんでんだ、お前ら(客)も俺を見て楽しんでくれよと積極的にそういった動きを披露してるってのもあると思うんだけど、基本的には単に好きでやってるんじゃないかと俺は考えてる。
 生来のドラマティックさを愛する感性・・・うーん、成功者のヒケツなんじゃないでしょうか。
 とにもかくにもRoyal HuntにD.C. Cooperが帰ってくる。
 俺はJohn Westはキライじゃなかったですよ。
 以前、Acceptのボーカル、そしてUdo Dirkschneiderの後任としてのDavid Reeceについて語ったことがありましたが、John Westという武器は、Royal Huntの魅力をいささかも損なうことのないまま、D.C. Cooper期とは違った強さをバンドに与えてくれたんじゃないですかね。
 単純に声質から来る歌唱の迫力だけで言えばD.C. Cooperよりも明らかに上でしたし、2000年に入りどのバンドも軒並み音の芯がぶっとくなっていく中、John Westの力強い歌唱はRoyal Huntをエクストリームメタルムーブメントから完全に弾き出された存在にさせなかった主要素のひとつだと思います。
 勿論André Andersenが律するバンドの方向性に多少のヘヴィさを加味したということも見逃せませんが、その変質したバンドサウンドを常に凌駕する歌を聞かせてくれたJohn Westってのは、やっぱり偉大な存在だったのです。
 というかもう、単純にうますぎなんだよね、彼は。
 バックはズドズドピロピロしてないともうデビューできねぇんじゃねーか!?ってくらい今メタルはヘヴィ志向・テクニカル志向が極まってるように思えますが、ボーカリストも朗々と歌い上げるタイプの人が極端に減って叫びに迫力があれば合格みたいな風潮はなんとかならんかなと思います。
 比較の対象として凄すぎるかもしれませんが、結局Jørn Landeあたりには歌唱力は勿論、シャウトを耳にして得られるエキサイトメントにもどうせ敵ってないんですから。
 そんな中、John Westは稀少な、今も生き残るハードなメロディアスシンガーなんですよね。
 えー、ところでD.C. Cooperの前任はJohn WestではなくMark Boalsなわけですが(笑)、個人的に好きじゃないので語るにどうでもいいです。
 とにもかくにもRoyal HuntにD.C. Cooperが帰ってくる。
 メタル界の人事異動に関しては、Nevermoreの後任ギタリスト・ドラマーは誰なのかとか、KamelotRoy Khanの後に歌うのは誰なのかとか、Vaderにはもうある程度長く居つくようなセカンドギタリスト・ベーシストは加入しないのかとか、メタルじゃないけどGotthardの後任ボーカリストいい加減発表せえよとか色々関心事が尽きませんが、今後しばらくこのD.C. Cooper再加入を凌駕する衝撃的なニュースはそうそうあるまいて!

2011年9月5日月曜日

ΤΟ ΜΕΤΡΟΝ ΤΟΥ ΧΡΗΜΑΤΟΣ ΠΑΝΤΟΣ

μέτρον πάντος χρήματος θεός ἐστιν. πάντα ζῷα θνητά ἐστιν. ἄνθρωπος ἄκων πολλάκις ἁμαρτάνει. ἄνθρωπος πολλάκις ἄκων ἁμαρτάνει. ὁ θεὸς ἀνθρώπῳ παντὶ δῶρον χαρίεν δίδωσιν. ὁ χρόνος πάσας λύπας θεραπεύει. χρήματος πάντος μέτρον ἐστὶν θεός. τοῦ χρήματος πάντος τὸ μέτρον θεός ἐστιν.
τὸ μέτρον χρήματος πάντος θεός ἐστιν. τὸ μέτρον χρημάτων πάντων θεός ἐστιν. τὸ μέτρον χρήματος πάντος θεός ἐστιν. ζῷα πάντα θνητά ἐστιν. τὰ ζῷα πάντα ἐστὶν θνητά. ζῷα πάντα θνητά εἰσι. θνητά ἐστι πάντα ζῷα. ὁ θεός ἐστιν τὸ τοῦ χρήματος πάντος μέτρον. τὸ μέτ
ρον θεός ἐστι πάντος χρήματος. θνητὰ ζῷα πάντα ἐστίν. πολλάκις ἄνθρωπος ἄκων ἁμαρτάνει. ὁ ἄνθρωπος πολλάκις ἄκων ἁμαρτάνει. ὁ θεὸς δίδωσι δῶρον χαρίεν παντὶ ἀνθρώπῳ. ἀνθρωπῳ παντὶ δίδωσιν χαρίεν δῶρον ὁ θεός. παντὶ χαρίεν ὁ θεὸς δίδωσιν δῶρον ἀνθρώπῳ. ἄνθρωπος πολλάκις ἁμαρτάνει ἄκων. ὁ θεὸς τοῖς ἀνθρώποις πᾶσιν δίδωσιν χαρίεν δῶρον. ὁ χρόνος θεραπεύει λύπας πάσας. πάσας λύπας θεραπεύει ὁ χρόνος. πάσας ὁ χρόνος θεραπεύει λύπας. τὸ τῶν χρημάτων πάντων μέτρον θεός ἐστιν. τὸ μέτρον τῶν χρημάτων πάντων ἐστὶν θεός. θεός ἐστιν τὸ μέτρον χρημάτων πάντων. ζῷα θνητά ἐστι πάντα. πάντα θνητά εἰσιν ζῷα. ζῷα πάντα θνητά ἐστιν. πᾶν ζῷον θνητόν ἐστιν. οἱ ἄνθρωποι πολλάκις ἄκοντες ἀμαρτάνουσιν. πολλάκις ἁμαρτάνει ἄκων ἄνθρωπος. ἁμαρτάνει ὁ ἄκων ὁ ἄνθρωπος πολλάκις. πάντες ἄνθρωποι ἄκοντες πολλάκις ἁμαρτάνουσιν. ἀνθρώπῳ χαρίεν δῶρον ὁ θεὸς δίδωσιν παντί. ὁ χρόνος θεραπεύει λύπας πάσας. θεὸς χρήματος τὸ μέτρον ἐστὶν παντός. θνητὰ ζῷά εἰσιν πάντα. ἁμαρτάνει ἄνθρωπος ἄκων πολλάκις. ὁ θεὸς πᾶσιν χαρίεντα δῶρα δίδωσι ἀνθρώποις. δίδωσιν χαρίεν παντὶ δῶρον ἀνθρώπῳ ὁ θεός. λύπας θεραπεύει ὁ χρόνος πάσας. τὸ μέτρον χρήματος θεός ἐστιν παντός. ζῷά ἐστιν πάντα θνητά. ἄνθρωπος ἁμαρτάνει πολλάκις ἄκων. ὁ θεὸς ἀνθρώπῳ δῶρον χαρίεν δίδωσι παντί. ὁ χρόνος θεραπεύει λύπας πάσας. Μέτρον χρήματος παντὸς θεός ἐστι. Πάντα ζῷα θνητά ἐστιν. Ὁ ἄνθρωπος πολλάκις ἄκων ἁμαρτάνει. Ὁ θεὸς παντὶ ἀνθρώπ}ω χαρίεν δῶρον δίδωσιν. Ὁ χρόνος λύπας πάσας θεραπεύει. Θεός ἐστι παντὸς χρήματος μέτρον. Θνητά ἐστιν πάντα ζῷα. ἄκων ἁμαρτάνει ἄνθρωπος πολλάκις. Παντὶ ἀνθρώπῳ δῶρον χαρίεν δίδωσι ὁ θεός.
ὁ πολέμιος ἐκ τοῦ ἀγροῦ καρποὺς φέρεται. Οὐδέποτε ἄνθρωπος πολέμου παύσεται. Ἤδη ἀναπαυόμεθα. τί οὐ παύῃ, ὦ νεανία, τῆς κακουργίας; Ἄνθρωποι ἀγαθοὶ ἀγαθὸν δίδονται. Τί οὐ λούεσθε; Ἤδη λελούμεθα. Ἐν τῷ ποταμῳ λούονται παρθένοι. ὁ πολέμιος φέρεται καροοῦς ἐκ τῶν ἀγρῶν. ἐκ τοῦ ἀγροῦ καρποὺς φέρεται ὁ πολέμιος. φέρεται καρποὺς ὁ πολέμιος ἐκ τοῦ ἀγροῦ. ὁ ἀνθρωπος πολέμου οὐδέποτε παύσεται. Πολέμου οὐδέποτε παύσεται ὁ ἄνθρωπος. ἄνθρωπος πολέμου οὐδέποτε παύσεται. Ἤδη ἀναπεπαύμεθα. Ἀναπεπαύμεθα ἤδη. ἡμᾶς αὐτοὺς ἀναπαύσομεν. τί οὐ πέπαυσαι, νεανία, τῶν κακουργιῶν; Πεπαύμεθα πάντας τὰς κακουργίας. Νεανία, τί οὐ παύσῃ τῆς κακουργίας; Τί τῆς κακουργίας, νεανία, οὐ πέπαυσαι; Οἱ ἀγαθοὶ δίδονται ἀγαθά. Ἀγαθὸν δίδονται ἀγαθοί. Ἀγαθὸν δίδονται ἄνθρωποι ἀγαθοί. Τί οὐ λούεσθε; Λελούμεθα. Ἤδη λελούμεθα. Αἱ παρθένοι ἐν τῷ ποταμῷ λούονται. Λούονται ἐν τῷ ποταμῷ παρθένοι.

 πᾶςの男性或いは中性の単数属格及び与格のアクセントの位置が、どれか間違ってるかも。
 全部第一音節に鋭アクセント置いちゃったんだけど、これ単数属格がπαντόςだから鋭アクセントは属格παντός, 与格παντί(パンティ・・・w)でultimaに来るんだよね。
 そのこと思い出して、タイプの際は全部直した。ノートの間違いはそのまま。
 ノートに余白を残さんと綴っていて、且つなんかいっちょまえに長文記してるような見映えにしたくて文頭に番号入れたりとかいうのは極力しないようにしてるので、すべての文章がずらずらと連結していて非常に読み辛い。読み直さないからいいんだけど。
 でも、つまりタイプにも向いてないな・・・目通しながら写してるワケだし・・・。
 ところで途中から文頭を大文字で書いてますが、作文する際くらいはすべてを教科書のやり方に従うこともないかなと思って。ノートでの見た目もこれまでとは僅か乍ら変化がつきました。しかしこれまでに刷り込まれたクセは簡単には抜けず、無意識に文頭を小文字にしている箇所もまだチラホラ・・・。
 従うこともないかな、とはいっても、もちろん、「真似」が上達には最適ですからね。
 ラテン語でもそうですけど、ふつうの文であまり動詞が文頭に来るということはないようで、また、ある名詞を修飾する属格名詞はその名詞よりも後の位置に来ることが自然なようです。作文の際、その辺念頭には置いてるんですが・・・文体に反映させてるかっつーと、属格名詞に関しては倣ってるんですが、動詞はかなりの頻度で文頭に持ってきてます。
 教科書とは違った訳の仕方をしないと、「和訳せよ」という出題と「作文せよ」とでは、動詞の主語の数、名詞の数、その他1、2個の言葉を別のものに置き換えただけの味気ない作文になりがちなので、日本語の逐語訳をギリシャ語でするような感じで文章は考えてます。そうすると大抵ギリシャ語的でない文体になるので。
 たとえば「きみは我々の娘に教育を施したか?」という日本語の文を古典ギリシャ語訳するとします。

Πεπαίδευκας τὴν παρθένον ἡμῶν;
きみは教育した - 我々の娘を

 日本語の文では主語が先頭に来ているので、それを動詞で明示しています。おそらく「自然な」語順は「きみは教育した」が最後に来るものだと思います。
 次にもう少し言葉の多い文を-「神は遍く不正なる者どもに優美な贈り物をくださらない」

Ὁ θεὸς πᾶσιν τοῖς ἀδίκοις χαρίεντα δῶρα οὐ δίδωσιν.
神は - すべての不正な者たちに - 優美な贈り物を - 与えない

 こういった主語が第3者である文の場合はそれが動詞以外の語で明示できるわけなので、動詞は先頭にやりません。
 まったく日本語の逐語訳にして、ギリシャ語としても自然な語順になっていると思いますが、日本語と同じく、ラテン語やギリシャ語は与格(間接目的語、~に)が対格(直接目的語、~を)よりも先に来ることが多いようです。ただ、形容詞(χαρίεντα < χαρίεις n.pl.acc.)は強調を意味しないのならふつうは修飾する名詞の後ろにつくようです。
 それにしても昨日も書いたけど、時間かけたワリには全然書けてねーもっと一気に10ページくらいいかねーかななんて思いながら勉強してるわけですが、改めて自分の文章写してみると結構かかるもんなんだな。
 昨日最後に書いたことに通じますが、「急いてはことを仕損じる」とも云うし、速いのは素晴らしいが中身伴ってないとバカな結果に終わるんだよな。
 ・・・とかゆーふーに思うようにしないと、超絶せっかちな俺としては人生諦観して自殺しそうなんです。
 ちなみに昨日の記事タイトル、Σπεῦδε βραδέωςは「ゆっくり急げ」という意味です。
 初代ローマ皇帝・アウグストゥスが好んでいた言葉だそーです。
 日本語で言うと「急がば回れ」?
 勿論彼が言ったのはギリシャ語としてではありませんが。
 ラテン語版はFestina lente
 ギリシャ語 / ラテン語共に、日本語としての並びは「急げ(動詞2人称単数)」+「ゆっくり(副詞)」。
 全然似てませんね。
 まぁそれにしても古典ギリシャ語と古典ラテン語を比べることは、インド・ヨーロッパ祖語の子孫として現代フランス語と現代ペルシャ語を比較して近似点を見出そうとするよりは無謀でないとは思いますが、2つの言語の勉強をする際のいずれかからもう一方への知識の活用は、語彙に於いても文法的要素に於いても驚くほど適わない。
 philosophiaとかギリシャ語からラテン語へ輸入された言葉なんかは別にして、下級の語彙を例にとってみると、互いの言語のそれ同士似ているものがないか常に意識を払っているんだけど、・・・ないね。ただ、θεόςとdeus(テオス / デウス、いずれも「神」)という語の形の成立は相互に関係あると思うし、「書く」は希: γράφω(グラポー; 「なんとかグラフィ」の「グラフィ」の部分の語源) / 羅: scrībō(スクリーボー)といってまったく距離のある形をしているとは思いがたいものもやはり語源を同一としているのではないかと考えさせられてしまう。
 もう判明してるのかもしれないけどね。
 俺が個人的に知らない限りは未解決も同然だから。
 さて昨日のΣπεῦδε βραδέωςと同じく、9月2日のタイトル・Δοῦλος ἀχρεῖός εἰμιも、すべて大文字で書いてあるのは、記事のタイトルのフォントをTimes New Romanに設定していて、これを通して古典ギリシャ語のアクセント付字母を表すとてんで醜い見た目になるからで、大文字だとアクセント記号がいらないってどっかで読んだ気がするから。フランス語とごっちゃにしてる可能性もあるけど(たとえばétudiant(学生)などはETUDIANTでもÉTUDIANTでも許される。むしろ前者の表記の方が見る機会が多いと思う。俺は大文字にも完璧にアクサン記号付ける派)。
 そして今回のタイトル、理想の表記はΤὸ μέτρον τοῦ χρήματος παντόςでしたが、これは「あらゆる物事の尺度」という意味です。まぁなんでもよかったんで、なんでもよかったなりになんとなくこれを。

 ところでこの3日なんだかギリシャ語の転写で記事をつくってきちゃってますが、1日の学習内容をここにタイプするってのはあくまでオマケのつもりです。だって「話題」じゃないしね、日課みたいなもんだから。歯磨きが話題にはなんないでしょ。
 何かについて書いた後に今日こんなこと勉強しましたと追記するだけのはずだったんだけど、たまたま話題がないので仕方なく。
 早くDUM SPIRO SPERO芸リンピックDEAR FUTUREについて書けるようになりたい。
 一応他にも話題候補あるけど、ちょっとまだ。
 実際書くかどうかはともかく、Skid RowSebastian Bach今井麻美Halestormデンマーク語Jan Benkwitz・・・あたりが今後優先的に話題に来そうです。

2011年9月4日日曜日

ΣΠΕΥΔΕ ΒΡΑΔΕΩΣ

 昨日は起きたのがなんと午後2時で、勉強する気力などなくバイトに行くまでにもさほど時間もなく、で何も書けませんでした。
 そして特に話題もなかったので更新せず。
 今日は今日で11時起き。
 昨日今日と寝た時間がね、アレでね。
 同じく話題はございませんが何行かは綴ったのでタイプタイプ。

χάριτεσ μὲν χάριτασ τίκτουσιν, ἔριδες δ'ἔριδας.
φενακίζεις, ἐλπὶ κενή, τὰς φυχὰς τῶν ἀνθρώπων.
ἐξ ὄνυχος τὸν λέοντα γιγνώσκομεν. πνεύματι βαπτίζει.
εἰς τὸν θεὸν ἐλπίδας ἔχομεν.
τῷ μύρῳ τοὺς πόδας μου ἠλείφατε.
τῷ μύρῳ τοὺς πόδας μου οὐκ ἠλείφατε.
οὐκ ἠλείφατε τῷ μύρῳ τοὺς πόδας μου.
τὸ φῶς ἐν τῇ σκοτίᾳ φαίνει. τὸ φῶς φαίνει ἐν τῇ σκοτίᾳ.
ἐν τῇ σκοτίᾳ φαίνει τὸ φῶς.
αἱ μὲν χάριτες χάριτας τίκτουσιν, ἔριδας δὲ αἱ ἔριδες.
αἱ μὲν χάριτες χάριτας τίκτουσιν, αἱ δ'ἔριδες ἔριδας.
κενὴ ἐλπί, τὴν τοῦ ἀνθρώπου φυχὴν φενακίζεις.
ἐλπὶ κενή, φανεκίζεις τὴν φυχὴν τοῦ ἀνθρώπου.
κενὴ ἐλπί, φενακίζεις τοῦ ἀνθρώπου τὴν φυχήν.
ἐλπὶ κενή, τὰς τῶν ἀνθρώπων φυχὰς φενακίζεις.
γιγνώσκομεν ἐκ τῶν ὀνύχων λέοντα.
γιγνώσκομεν λόντα ἐκ τοῦ ὀνύχος. βαπτίζει πνεύματι.
ἔχομεν εἰς τὸν θεὸν ἐλπίδας.
τῷ μύρῳ τοὺς πόδας μου οὐκ ἠλείφατε.
τὸ φῶς ἐν τῇ σκοτίᾳ φαίνει.

 今回はすべて俺がつくった文章ですよ。
 本のものの単なる模写と区別し易いよう、模写のページと作文のページを分けることにしました。
 「今日はこんだけだし見映えしないなぁ」と思ってましたが、いざ書き始めると結構苦なのね・・・古典ギリシャ語をタイプし慣れてないからだとは思うけど。
 古典ギリシャ語は典型的な屈折語で且つ、「普通」と思しき品詞の並びのパターンはいくつかあるようですが、基本的に語順は書き手、話し手の裁量に委ねられますので、ひとつの文章を色んな形に書き分けられるところが面白いのです。
 古典ラテン語よりも。
 そんなことをする際十分注意を払う必要があるのが、アクセントの規則
 古典ギリシャ語は古典ラテン語よりもアクセントについての規則が多く、また、ラテン語とは違ってそのアクセントの位置が文字として実際表記上現れることから、音声面だけでなく筆記面に与える影響が無視できないのです。
 たとえばεἰμί(=eimi, “I am)などの後倚辞(こういじ)。
 この直前の語は、己の中のどの位置にアクセントを有しているかによって、そのアクセントの質、そしてそれだけでなく直後に来ているεἰμίのアクセントの質をも変えてしまいます。
 たとえば

 δοῦλος ἀχρεῖός εἰμι. / 私は役立たずの奴隷である。
 (↑一昨日の記事タイトルですね)

 ふにゃっとしたのは曲アクセント、右斜め上から降りてきているのは鋭アクセント(εἰμίのιについているアポストロフィのようなものは気息記号で、この場合はειがeiと発音されることを示しています)。
 これら3語をバラバラにすると、 δοῦλος と ἀχρεῖος と εἰμί なんです。
 後倚辞という名称は、その語自体の位置は何か別の語の後ろに必ずなることから来ています。
 また、後倚辞すべてがそうであるというわけではないようですが、この後倚辞εἰμίは、これの直前に来ている語のアクセントに影響を与えます。
 ふつう、一語につきアクセントはひとつです。
 しかしこのἀχρεῖός εἰμιという2語の並びは形容詞ἀχρεῖοςに影響を与え、εἰμίからアクセントを奪い、己の中に2つのアクセントを有しています。
 後倚辞からのアクセントの奪い方ですが、後倚辞直前の語に曲アクセントがあり、それが最終音節から2番目の音節(文法用語でpaenultima=ラテン語、「最後の前」)にある場合、最終音節(ultima=「最後」)に鋭アクセントが付きます。

ἀχ - ρεῖ - ός
第1音節 - paenultima(曲アクセント) - ultima(鋭アクセント)

 曲アクセントはultimaかpaenultimaにある長い母音にしか付きません。
 ultimaに曲アクセントがある場合は、曲アクセントはそのまま維持され、後倚辞からアクセントが消失するだけです。

 ἡ συναγωγὴ ἐν τῇ οἰκίᾳ τῶν γεωργῶν ἐστιν χαρίεσσα. /
 あの農夫たちの村にある会堂は優美だ。

γε - ωρ - γῶν(< γεωργός m.pl.gen.)
antepaenultima - paenultima - ultima(曲アクセント)

 次に、後倚辞直前の語が鋭アクセントを持ち、それがultimaから3番目の音節(antepaenultima=「最後の前の前」)にある場合、ultimaに2つ目の鋭アクセントが生じます。

 ἄνθρωπος δίκαιός εἰμι. / 私は正しき人間である。

δί - και - ός
antepaenultima(鋭アクセント) - paenultima - ultima(鋭アクセント)

 鋭アクセントがpaenultimaにある場合は、後倚辞が2音節の語であれば、その後倚辞のアクセントは維持されたままであり、且つ、その直前の語のアクセントにはなんの変化もありません。
 つまり、鋭アクセントは隣接しないのです。

 ἐγὼ ὁ τῆς ζωῆς ἄρτος εἰμί. / 他ならぬ私が命のパンである。

ἄρ - τος
paenultima(鋭アクセント) - ultima(アクセントゼロ)

 そして鋭アクセントがultimaにあれば、その語の次に別の語が控えている場合、鋭アクセントは重アクセントと呼ばれるものになり、表記はされるがアクセントは「ないもの」として扱われるが、後倚辞からアクセントを奪うと鋭アクセントとしての性質を保ち続けます。

 後ろが普通の語: παιδεύει ἀγαθοὺς ἄνθρώπους. / 彼は善き人間たちを教育している。

ἀ - γα - θοὺς(< ἀγαθός m.pl.acc.)
antepaenultima - paenultima - ultima(重アクセント)

 後ろが後倚辞: ἀγαθός εἰμι. / 私は善良だ。

ἀ - γα - θός
antepaenultima - paenultima - ultima(鋭アクセント)

 俺が学んだ範囲では、ラテン語のアクセントはultimaを含めず語末から3音節以内に存在し、2音節目が長ければそこが、短ければ3音節目がアクセントを持つ、という知識だけがあるけど、実際はアクセントのある箇所をただ強く発音すればいいわけじゃなかったらしく、それなりに読みに関しては難しかったそうだ。
 ちなみに「長い」と「短い」の判別の仕方だが、乱暴に言うと長母音をもつ音節、或いはある音節が子音で終わり直後の音節が子音で始まる場合その音節は「長」く、それ以外は「短」い。
 たとえばpuellārum(娘たちの < puella), Rōmānus(ローマ人)はantepaenultima(-el-, ō)とpaenultima(-ā-, -ā-)が長く、horribus(ひどい)はantepaenultima(hor-)が長く、maritimus(海の)はすべての音節が短く、interfaciō(殺す)は-ter-が長い(-ōも長いがアクセントに影響しないので無視)。蛇足だがantepaenultimaも例にすると-ul-が長い。
 しかしラテン語はアクセントを表記しないし、また、読みに関して突っ込んだ解説をしている学習書の方が少ないのではないかと思う。
 今日母語にする者がいないという点では古典ギリシャ語も同じだが、アクセントを表記するので規則を熟知していないと読むことはおろか書くことすらままならない。

 さて、明日から3連休です。
 実は希求法くらいまで本は進んだんですけど、中動相後半から接続法あたりにかけて頭がめちゃくちゃこんがらがってきて、それでもごまかしごまかしやってたのが遂にその希求法あたりで破綻したので、最初からやり直しているのです。
 千里の道も一歩から、ですね・・・。

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