2012年12月29日土曜日

გამარჯობათ, ენესსე მქვია

ガマルジョバ. トクヴェン・ヤポネリ・ハルト
- გამარჯობა. თქვენ იაპონელი ხართ?
ディアフ. エネッセ・ヴァル. トクヴェン・ラ・グクヴィアト
- დიახ. ენესსე ვარ. თქვენ რა გქვიათ?
メ・ニノ・ムクヴィア. ストゥデンティ・ハルト
- მე ნინო მქვია. სტუდენტი ხართ?
ディアフ, ストゥデンティ・ヴァル. ヅァリアン・サスィアモヴノア
- დიახ, სტუდენტი ვარ. ძალიან სასიამოვნოა.
メツ・ストゥデンティ・ヴァル. ヅァリアン・サスィアモヴノア
- მეც სტუდენტი ვარ. ძალიან სასიამოვნოა.
アルバト・ダグリリ・ハルト
- ალბათ დაღლილი ხართ.
アラ, ダグリリ・アラ・ヴァル
- არა, დაღლილი არა ვარ.

 うーん、やっぱりLEXILOGOSは便利だなあ。
 ラテン文字を使う言語をタイプする時と同じ感覚で、こうやって文章が作れる。作るといっても、暗記した他人のモノをそっくりそのまま書いてるだけだけどね・・・。「ენესსე(エネッセ)」は勿論俺のことだけど。
 それにしてもさ、「ძალიან სასიამოვნოა(dzalian sasiamovnoa)」、この語感めっちゃかっこよくない?日本語で言う「はじめまして」に相当する表現なんだけど、これまでに知った他言語の「はじめまして」で群を抜いて語感に魅力を感じる。他に好きなものといえば、ルーマニア語の「încântat de cunoştinţă(ウンクンタト・デ・クノシュティンツァ)」、ポーランド語の「bardzo mi miło(バルヅォ・ミ・ミウォ)」もなかなか。「クノシュティンツァ」と「バルヅォ」って語感がイイからってだけなんだけどね。
 さて、驚くほど濃密な子音クラスターで有名(?)なグルジア語ですが、現在第2課まで読了、この時点ではその特徴はまだまだ息を潜めてるって感じですね。თქვენ(tkven=きみたち; あなた; あなたたち)とかმქვია(mkvia=私は...という名である)みたいに、早くも、広く比較的知名度のある言語では見られないような重子音が登場してはいるんですが、こんなの序の口でしょうね。しかしこの初歩の段にあっても「გქვიათ(gkviat=きみたちは / あなたは / あなた方は...という名である)」の「gk-」という重子音には驚かされる。たとえばフランス語のabsent(アサン=不在の; b=p)、ポーランド語のw Polsce(・ポルスツェ=ポーランドで; w=f)、ロシア語のсказка(スカーカ=物語; з=с)、ハンガリー語のvagytok(ヴァトク=きみたちは...である; gy=ty)などの様に、有声音と無声音が隣合えば片方が片方に影響されて音の変化が起こるってのが学習上は定石であったものだが。
 ところで「სტუდენტი(st'udent'i; t'は帯気音)」は「学生」なんですが、グルジア語でもこう言うんですね。どこから入ったのかな?隣国・ロシアでも「学生」は「студент(ストゥヂェーント)」だけど、ロシア語から入ったってのは有り得るのかな・・・。ちなみに、厳密にはこれは主格で、語幹は「სტუდენტ(st'udent')」です。こう書くとますますどこかで見た語形。「-ი」が主格の指標語尾になってます。
 で、第2課に「ეკლესია(ek'lesia)」ってのが出てくるんですが、これはéglise、ἐκκλησία(ekklēsiā)、つまり「教会」です。これも絶対外来語ですね。これも主格形ですが、語幹と形を共有しています。
 しかし「車」は不思議な語感をしており、「მანქანა(mankana)」と言います。「車」と言うと、「auto」、「mobile」、「machine」、「car」のいずれかからできてるものばかりこれまで色んな言語で見てきたんですが(フランス語ではautomobile(オトモビル; 原義は「自動で動くもの」)とも言うが、日常的にはvoiture(ヴワテュール)がふつう)、これは新鮮ですね。とは言え、最近学習の優先順位が上の方にあるポーランド語でも「samochód(サモフト)」というこれまたフランス語ないしはロマンス系的でない言葉になってるんですが。ちなみにポーランド語と同じくスラヴ系であるロシア語では「машина(マシーナ)」です。あれ、待てよ。もしかしてმანქანაはmachineからきてるのかな。
 とまあ、そんなこんなでグルジア語も楽しんでやっております。
 LEXILOGOSの力添えなしでは打てないどころか打つ気もまだしませんが、紙にペンで書くことにはもう早くも大分慣れてきてます。まだ出てきてない字もあるんだけどね。
 なんとなくさ、個人的に、「究極の他言語学習」ってのがあるとしたら、それはグルジア語だと思ってるんですよ。なんでなんですかね。何故かは自分でもわからないんですけど。非ラテン文字が正書法に用いられていること、形態論的に膠着語であること、子音クラスターが極端であること・・・とりあえずなんでかなと考えてみて思い浮かんだのはこういったところです。バスク語も難しいとよく言われますが、あっちはまだいいですよ。ラテン文字使ってるんだから。これはホントデカいですよ。まず読めないと学習どころじゃないって、絶対。あああ、チベット語も「究極」入りさせていいかもなあ。一字毎を読む分には事欠かないとしても、言葉って単位になると途端になんて書いてあるんだかって感じだし。読みの規則がないってことではないんだけどね。しかも敬語表現が発達していて、且つ動詞の使い分けに「心情」が関わってくるというなんとも説明し難い特徴がある・・・(少なくともラサ方言には)。正直なんのこっちゃやらでいまだに理解できてません。
 まあだからね、まがりなりにも己の言葉として使い始めようと思ったら暗記ってのがイイわけなんですよ。
 それを繰り返して理論でなく感覚でいつの間にやら身についた文法要素があるとか、ザラだからね。習うより慣れってやつかね。
 ところで「მე ნინო მქვია(me nino mkvia)」は「私はニノといいます」(女性が言っている; 姓・名の内「名」の方の言い方だそう)という意味なんですが、「ニノ」ってのは実在する名なんですね。
 荒川アンダーザブリッジがグルジアに輸入されて「ニノ」の名の由来をグルジア人が知ったら、我らの名は日本ではこんなマヌケな理由でつけられるものなのか・・・と多少は複雑な気分になったりするもんなんだろうか?ちょっと興味あるわ。

2012年12月28日金曜日

ugbgjwk.7 f,dty nghkytln @gjf2

 なんだと思います?この記事の題になってる文字列。
 グルジア語キーボードレイアウトを使ってこう打つと、

 გამარჯობა. თქვენ იაპონელი ხართ?

 と出てくるんです。
 ああ~、グルジア語と言えば極端な子音クラスター!すごいな、一語がこの長さで母音字をまったく含んでないやつがあるぜ、ということではなく、上のラテン文字が示す音と、グルジア文字が示す音はまったく異なっています。
 正確さを追求するのは面倒臭いので基本的なラテン文字だけを使って大雑把にその音を示すと、「gamarjoba. tkven iaponeli hart?(こんにちは。あなたは日本人ですか?)」となります。
 この理不尽なレイアウトをこれから覚えていかなければならないなんて・・・。
 困難があると燃える人はいいですね。俺の場合はものによりけりですが、これはただ単にハァ・・・って感じです。
 だってさ、既に書いたことだけど、アルメニア文字は、それに相当する音を持つラテン文字のキーを打つと別の音を持つ文字が出てくるなんてことないんだもん。そういうのがあると知ってるからこそ、何故グルジア文字のレイアウトはこんな配置になっちゃったんだと思わずにはいられない。
 あ、ただ、俺が学んでいるのはアルメニア語の西方言なので、「D」を打つと「Տ」、「T」を打つと「Դ」が出てきてくれないと違和感を持っちゃう。アルメニア本国の正書法(東方言とも言う)だと、ラテン文字のDにあたるものは「Դ」、Tにあたるものは「Տ」で、西方言とは逆。他、B / P、G / Kはそれぞれ「Բ / Պ」、「Գ / Կ」で、どれが有声音でどれが無声音であるかが、「Դ / Տ」と同じく東と西で逆になっている。たとえば「Հայաստան=アルメニア」は東方言では「ハヤスン」、西方言では「ハヤスン」だ。そういうわけで、前に原語でのアルメニア共和国の名を話題にしたことがあったが、あのとき書いた仮名による転写は東方言のものであった。ちなみに「東」と「西」の名の由来だが、アルメニアよりディアスポラでトルコ方面(=西方)に出て行った人々が話すから「西方言」、その対比でアルメニア本国の言語形態が「東方言」。アルメニア共和国内の東と西で大別されているわけではない。・・・ホント言うと、たぶんそうなんじゃないかな、ってだけなんだけど。
 そういえば、「ニュー」も含めてエクスプレスシリーズには何故アルメニア語のものがないんだろう?いくらなんでもマイナーすぎるということなんだろうか。アルメニアからして、日本でもさっぱり話題にのぼらん国だしなぁ。グルジアは、イヤな話ではあるが、侵攻をやらかしてひとときの間ニュースになってましたね。まぁ、それが「ニューエクスプレス グルジア語」の刊行に何らかの形で、或いは僅かでも影響を及ぼしたのかどうかは全然わからんが・・・。
 アルメニア語の日本での語学書は、いまだに国際語学社のものしかないんじゃなかろうか。持っているから知ってるんだが、この本はアルメニア語、日本語共に誤植がヒドいので、もっと洗練された編集をウリとしている出版社に是非新しいものを出してもらいたいのだ。同社はアラム語など興味を大いにそそられる言語の本も出しているんだが(グルジア語もある)、このアルメニア語の本の雑なつくりが原因で買うことに二の足を踏まされているんだよなぁ。
 なんか結局グルジア語の話しだったの、アルメニア語の話だったの?って感じだが、とにかくですね、グルジア語キーボードレイアウトにはいつになったら困らされずに済むんだ!ってことで。

2012年12月26日水曜日

un idiot (savant)

 サヴァン・Daniel Tammetは1週間でアイスランド語を習得するよう要求され、その成果をアイスランドのテレビ番組に出演して司会者たちと通訳なしでやり取りをすることで、その試みを成功に終わらせたことを見事証明した。
 1週間か・・・。
 紙の上でペンを走らせる分には、己のなんらかの言語の習得度は他者のペースに惑わされる心配がない。
 1週間で、たとえば簡単な日記をつけられるようになることは、アイスランド語であろうが何語であろうが無理のないことなのかもしれない。
 これは「意外に」ではない。
 実際、俺ならその自信が持てる。但し語彙を増やすことに積極的でないので、小学生以下の内容にならんとも限らんが。
 ポーランド語の学習を円滑に、比較的難解なページから読みながらも適っていることを書いた後、俺はチェコ語ルーマニア語グルジア語の語学書を買った。
 チェコ語は、学生だった時分に別の本で少しだけ勉強したことがある。
 ルーマニア語はさっぱりない。前知識としても、まさか文法性に男・女以外に中性があり、しかも格があるとは思ってなかった、そんな程度だった。
 チェコ語はルーマニア語の後に学習を始めた。こちらは最初の課から進んでいっている。
 片や初めて学ぶことになったルーマニア語は、最後の課から暗記を始めた。暗記による他言語の円滑な学習が、「どういうわけだかポーランド語でのみ適っていた」わけではないということを確かめたかったのだ。
 かなり苦労した。
 なにせ全然知らん言語。
 一応イタリック語派の言語なので、動詞、形容詞、前置詞などに見覚えのある言葉があったり、文中の品詞の役割がどういったものであるかの見当がつくものも多少あったことは幸いだったが、それにしてもルーマニア語は、イタリック語派の言語としては非常に異質だと、早くも思っている。スラブ系言語の影響が色濃いことも関係しているのかもしれない。
 最終課は

 ce impresie ţi-a făcut România?

 という一文で始まる。本に倣うと、「ルーマニアの印象は?」という意味である。
 ルーマニア語は最終課とそのひとつ手前の課の暗記を終えた後、普通に第1課から改めて始めて、今7課を読了したところであり、そのことも関係してなのか、それとも今冷静に考えてみれば、なのか、何故こういう文で上に示した通りの和訳となっているのかがようやくわかった。
 これは和訳も悪い。しかし逐語訳に近く訳しようとすると、日本語として不自然なものになってしまう。
 この文章の主語は、おそらくルーマニア(România)だ。実はこの見極めが重要なことだったんだが、まず俺は文の本質ではなく、「ţi-aってなんだ?」とこれについて考えずにはいられなかった。
 で、「ルーマニアの印象」という和訳に目がいき、これが「făcut România」に対するものだと勘違いしてしまったのがいけなかった。愚かに安直である。
 被修飾語に対して後置される名詞が原形のまま先行のものに帰属することを示すという文法構造があるのかと、まぁすぐ何かを思いつくのはこれまでに散々色々な言語に触れてきた結果であると喜んでいいのかもしれないが、この文に対してこの解釈はマズかった。これのせいで、この第一の文からしてかなり覚え辛かった。
 字数大したことないでしょ?でもそういう問題じゃないんだよな。俺は見えてるまま暗記してるわけじゃなく、一応自分の中で文型に対して納得いく解釈を、正しかろうが間違っていようが持てるかどうかってのが、円滑な暗記には必要だと思いながら事にあたってるわけだ。見えてるまま暗記できるヤツってのは、そうだな、冒頭挙げたDaniel Tammetみたいな稀有な連中、サヴァンだ。俺はサヴァンでなく、サヴァンの元の名(un idiot savant)から取り除かれたまさにイディヨ(白痴)。
 この文章は、

 ce impresie(チェ・インプレスィエ) = どんな印象を
 ţi-a făcut(ツィア・ファクト) = きみに為した
 România(ロムニア) = ルーマニアは

 という構造である。
 「ルーマニアの印象は?」という和訳に捕らわれている時間が長すぎたと思う。
 第6課にa face(ア・ファチェ)という動詞が登場した。フランス語でいうfaire(フェール; faceの前のaはàに相当)である。
 そうかなるほど、どうやらfăcutはa faceの過去分詞だろうなと考えが至ったわけである。語形からも過去分詞であると推測させられた言葉が他にあって、cunoscut(クノスクト; =有名な; フランス語・connu(コニュ)), pierdut(ピエルドゥト; =失われた; 同・perdu(ペルデュ))がヒントになってくれた。făcutが本当に過去分詞なのかどうかはともかく、仮にでもそう納得しておくとce impresie~の意味が、他者に用意された和訳にのみ頼るだけでなく理解できた気になれた。もしfaireがルーマニア語に於いてよく似た語形をしていると知っていれば、もっと早くによい解釈が適っていたかもしれない。
 この文を逐語訳でフランス語にすると、quelle impression la Roumanie t'a fait?(ケル・アンプレシヨン・ラ・ルマニ・タ・フェ)、「ルーマニア(la Roumanie)」が最後に来るようにもつくれて、その場合は、口語的ではないが、quelle impression t'a-t-elle fait la Roumanie?(ケル・アンプレシヨン・タ・テル・フェ・ラ・ルマニ)となる。こういう風に他の言語(といっても試みたのはフランス語でだけだが)を通して考えてみるのもいい。
 ce impresieが直接目的語だと思うんだが、そうなるとţiの形に疑問が沸く。というのも、「きみ」にあたる人称代名詞の与格形が、どうやらîţi(ウツィ)らしいからだ。以下の文からの推測である:

 ダカ・ヌ・エシュティ・オボスィト, ウツィ・プレズィント・オラシュル・ブクレシュティ
 dacă nu eşti obosit, îţi prezint oraşul Bucureşti. = もし疲れていなければブカレストの案内をするよ。

 この文型なら、prezint(不定形はまだ知らない)の直接目的語は絶対にoraşul Bucureşti(ブカレスト市; oraşulの-ulは後置定冠詞)である筈なので、これを案内(紹介)される側は与格で表現されるのが妥当というものだろう。
 しかし、こういう文もあった。以下のものは第19課からである:

 ウツィ・ムルツメスク・ディン・トアタ・アニマ
 îţi mulţumesc din toată anima. = 私は心からきみに感謝する。

 「mulţumesc」が「私は感謝する」にあたり、これをフランス語で言うと「je remercie(ジュ・ルメルスィ)」になる。remercier(remercie不定形)の対象は直接目的格である。ただ、フランス語では「きみを」も「きみに」も共に「te(ト)」一語で表現されるので、ルーマニア語でも同様なのかもしれない。
 さて、では「ţi-a」の「a」はなんだろうか?これは助動詞だと思う。フランス語で言えば、上にも示した通り、これと見た目は同じく「a(avoir 直現3単)」である。しかしルーマニア語でのavoirである「a avea(ア・アヴェァ)」の直現3単は「are」と学んだ(上から3段は単数、残り3段は複数; 人称代名詞+a avea活用):

イェゥ・アム
eu am
トゥ・アィ
tu ai
イェル / イェァ・アレ
el / ea are
ノィ・アヴェム
noi avem
ヴォィ・アヴェツィ
voi aveţi
イェィ / イェレ・アゥ
ei / ele au

 まぁ、まだ俺の知らない文法要素ってことなんだろう。或いは、a fi(=être)の直現3単は「este(イェステ)」であるが、「e(イェ)」にもなるの如く、省略形があるとか・・・どうだろう?
 何故色々とフランス語でいちいち考えているのか?それはルーマニア語を知らないからである。
 しかし暗記には問題がない。
 今日、ポーランド語、チェコ語、ルーマニア語を取っ替え引っ替え暗記していったが、まったくなんの問題もなかった。知恵熱が出たり頭が重くなったり他言語間で言葉の交換が行われてしまったりといったことなども一切ない。人の記憶の引き出しは無限に存在しているんだろうか?考えても栓のないことであるが、ふとそういうことが不思議に思えてきてしまう。
 それにしても、以前は1日かけて1課を暗記していた筈なのだ。
 どうなってんだ、ホントに?
 ポーランド語は、20課から逆流して11課に到達した。これを除いた2言語、1週間あれば・・・たぶんどちらも読了し、それに加えポーランド語の学習も終わっているだろう。
 以前、チャリで通っていて16時から21時までが労働時間となっていたバイトと違って、今のバイトは強制的に1日9時間(休憩1時間含む)+電車通勤時間を費やすことになっている。ついでに、24時間営業の店舗で、休みは週2だ。おまけに店長と営業以外は土日祝日関係なし。シフト制なので休みの申請はある程度きくと思うが、別の月にその分多く出勤させられるらしい。
 この生活環境の中で、1週間で1冊、2冊の語学書が読了できれば成果として本物だろう。
 さて・・・グルジア語についてですが、これはこの1冊だけにかまけていいとしても1週間じゃムリそうだ。
 なんせ、まず文字を覚えないといけない。
 文字を覚えずして暗記に取り掛かるとなると、それこそ絵を眺めるが如くだ・・・。
 あと、こういうところでタイプするとなるとキーの位置も覚えないと・・・正直こっちの方が億劫だ。
 アルメニア文字やギリシャ文字などは、ラテン文字ではないが、たとえば「R」を打ては、これに相当する「Ր」、「Ρ」が出てくるように、キーの位置を新たに覚える必要が殆どない。アルメニア文字はラテン文字よりもかなり多いのでその分の配置は覚えないといけないし(数字のキーや約物のキーにまで割り振られている)、ギリシャ語は古典期のものをタイプしようと思うとアクセントや気息記号も使いこなさなければいけなくはあるが。
 片や、グルジア文字は、たとえば「K」と打つと「ო」が出てくる。これはラテン文字で言う「O」にあたる・・・。
 しかしやって覚えられないことはない。アラビア文字やヘブライ文字のキーボードレイアウトも、ラテン文字のキー配置がまったく参考にならない構造になっているが、覚えられた。しかも割りと早くにだった気がする。
 しかしいまだに大嫌いなレイアウトがある。キリル文字だ。といってもロシア語のもので、たとえば同じく正書法にキリル文字を採用しているマケドニア語やセルビア語のキーボードでは、「D」と打つとこれに相当する「Д」が出てくる。しかしロシア語レイアウトでの「D」は「В(=V)」である。何故かこのロシア語レイアウトではキリル文字の正しい位置がさっぱり覚えられなかった。僅かな数だけを修得して終わった。いや、またやればいいんだけどさ・・・。ちなみに何故マケドニア語レイアウトでロシア語を打たないのかと言うと、前者のレイアウトにはない文字を、ロシア語で用いられているキリル文字が有しているからである。
 今度は色んなキーボードレイアウトの素早い覚え方を編み出す試みに取り組んでみようかな・・・。
 あ、最後に余談なんだけど、「ニューエクスプレス ルーマニア語」はすごいオススメの本です。最初からまったく手加減なしで、最終課までずっと文字数が多い。シリーズの他の本に比べて、かなり早い段階からスキットがギュウギュウになってるのが少し眺めただけでわかるかと思います。ちなみに登場する単語の数が飛び抜けて多いわけではなく、他の本と同じである。つまりは著者の能力のおかげだね。Este uimitor şi extraordinar!
 逆にイマイチなつくりであるという印象を受けたのがチェコ語。書店でパラパラと見つつ、本当は買おうかどうかかなり躊躇したんだけど、同じく西スラヴ系言語であるポーランド語とどんくらい似てるもんかなと学習しながら検証したくて買ってみました。ポーランド語のものに比べると全体的に空白が大きい感じがするんだよね。まぁ、ポーランド語はその正書法が原因(複数ある二重子音、チェコ語よりも遥かに多い軟音の表現の為)でどうしても綴りが長くなりがちな言語だから比較には少々無理があったのかもしれないけど。挿絵の質もクソ。しかもやたらとデカい絵が多くて、これのせいで文章入れるスペースが圧迫されてるんじゃねーのかと思う。

2012年12月23日日曜日

俺はものぐさだから

 結局劇的な暗記方法というものは編み出せていないまま。
 ここ数日は原点回帰の上勉強している。
 最近また語学書が新たに2冊増えたのだが、そのうちのひとつは、ポーランド語のもの。
 そしてもうひとつはポルトガル語。・・・「ポルトガル語」ね。「ブラジルの」とか、そういうの一切付かない、純粋なポルトガル語。真のポルトガル語。その名の通りポルトガルで育まれたポルトガル語。ブラジルのポルトガル語なんて俺はやりたかね。いやいつかやるものとしてはいいが、最初は純正に拘りたいんだよ。しかし確かja.wikipedia.orgで目にしたのだと思うが、ポルトガル本国のポルトガル語の正書法は、ブラジルでのそれに倣うようになっているのだか、或いは倣うようになるのだとか。こんなに嘆かわしいことはない。何故そんなことをするんだろう。今やポルトガル語と言えば、ブラジルで話されているポルトガル語の方が影響力があるからか?それはそうだろうな。話者数がまるで違うし。しかしそれに追従する意味が皆目わからない。本当にさっぱりだ。
 ちなみにそんな2つの形態の力関係の差を表しているかの如くであるが、日本では純粋ポルトガル語の本が極僅かしか出版されていない。ないわけではないのでそれが勉強できないということはないが、ルシタニアでない彼の地で話されているポルトガル語の本が、辞書、単語帳、会話練習帳、文法書と様々な体裁で出版されているのを目にするのが実に容易であることに比べれば、その品数の少なさたるや実に残念なことである。
 まぁ、需要がないんでしょうな。簡単な理由である。俺にしたって別にポルトガル本国のポルトガル語を学ぶ動機なんて特にない。たとえば市井の民の声を拾って語学書を作ってくれる出版社があるとして、ではプレゼンどーぞと言われても理由に困る。
 俺の買った本では、ブラジルのポルトガル語を勉強した筆者がポルトガルへ行くと会話に苦労したということが重ねて記されていたが、実際そんなに意思疎通に多少の困難が伴うものなのだろうか?片や、ノルウェー、スウェーデン、デンマークの3国間で、それぞれ固有の言語で互いに話して通じることを鑑みればなんともまあ不思議な話である。ブラジルの、とはいってもあくまでもポルトガル語である。しかしこちらは言語名からして違う。つまり相互に独立性が確立されているということだ。といっても、これら3言語についてのこの話も実際自身が体験したことではないので、本当に通じ合えるのかどうか半信半疑でもあるんだが。というかそもそも、この3つの言語が3つとも云々以前に、とりわけデンマーク語が音声面からしてスウェーデン人、ノルウェー人に通じるとはとても思えないんだけどなあ・・・。
 さて、冒頭の「原点回帰」とはどういうことであるか。
 これは、口に出さず、字を追ってだけして記憶していくというやり方である。
 そして、自分で文章を作る。
 自分で文章を作りながら言葉の使い方や、正しい文法に注意を払い正書法を身に着けてゆくという勉強方法はお勧めである。必ず身につく。
 コツは、どんなに簡単な表現であっても、頭に浮かべば即座に文字にしてみること。口にできるのならそれでもいい。俺の場合は書く(或いは打つ)。
 頭が余程ヘンな構造をしていない限りは、勉強の進捗が著しく進んでいない限りは、即座に思いつけるのは簡単な表現であるはず。そういったものの積み重ねで言語は身につく。いつまで経っても「あれはうんたらです」「こんにちは、お元気ですか?」「どこに住んでいますか?」「昨日は何を食べましたか?」程度の表現しか思いつかなくても、つまりはそれらを何度もしつこく他言語を通して自身の言葉にしていけば、それらは確実に身につけられるということだ。身につけられるものが多いのはいいことだ。そして論文を書いたり小難しいことを長々と述べてみたりしたいのでなければ、そんな簡単なことしか口にできず仕舞いであるとしても、なんの問題がありましょうか?俺は将来、こんな風に他言語ですらすらすら~っと記事を書いてみたいので簡単な表現じゃ満足できないけどね。でも咄嗟に思い浮かぶ言葉が10回連続くらいで「こんにちは、お元気ですか?」くらいのものであったとしても、必ずそれはすべて文字にしている。逆に言えば、その程度のものくらい流暢に表せなくて後々難しい表現が適うと思ってんのか、ということだ。
 ただ、採るべき勉強法は、そのとき教師となってくれている学習書のつくりにもよる。
 上の勉強法は、ポルトガル語の本を読んでいるときのもの。
 ポーランド語の勉強をしているときにはやっていない。いや、生格、じゃない正確にはしていたんだが、やはり俺は生来のものぐさだ。
 俺のポルトガル語の本には、基本的に長文が載っていない。課毎の冒頭に複数の例文が示され、それらの文章で用いられている表現や文法について個別に解説が為されている、という構成だ。
 ポーランド語の本の方にはスキットがある。ひとりの人による記述もあるが、基本的には殆どが会話文だ。
 当然、あとの方のページには複雑な表現が並ぶ。
 全20課あるが、8課くらいまでは最初のページから順に読んでいって学習していた。
 しかし飽きた。
 だから最後の課から逆流していくことにした。
 そうすれば勉強が面白くなるかと思ったかというと-まったくそんなことはない。しかしページの空白をよい具合に埋め尽くすほどの文章群というのは、やはり見ていて心地良い。
 それにしても自分で自分を驚異的だなと思った点がある。
 当たり前のことだが、20課の文章を読むには、文法的知識が不足している。しかし暗記だけでそれすらも乗り越えられる。
 しかも1課丸ごとの暗記に要する時間は僅か30分ほどだ。
 勿論もっと早くに暗記を終えてしまうヤツだっているだろう。
 しかし、20課から・・・今16課なんだが、今のところ30分程度で暗記が適っている。学習開始当初、真面目に最初から読み進めて到達した8課あたりに差し掛かる頃には、暗記に要する時間は当然の如くもっと短くなっているに違いない。
 つまり、1冊に掛ける勉強の総時間が大したことにならないという結果が得られる。
 取り敢えず計算し易いよう、仮に全課30分ずつで終わらせたとすると、所要時間は10時間。そして逆流の内に差し掛かる10課あたりを堺に必ず1課あたりに費やす時間はかなり減るはずなので、実際の所要時間はもっと少ないだろう。これにプラスして文法事項の確認と習得に数時間を掛け、10時間前後になるんじゃなかろうか。ちなみに語彙を増やす努力というのはこれまでに滅多にしたことがないので、表現力アップを謳って設けられている単語表のページはまともに見ないこととする。まぁ、気分にもよるだろうが。
 俺はある1冊のフランス語辞書の付録として載っていた文法解説のページを約4ヶ月間何度もしつこく繰り返し読みまくることで、4年間、フランス人教師との会話も含んだ、大学内での学習に殆ど困らないだけの語彙、文法知識、発音法を得た。
 4ヶ月を費やしひとつの言語の学習書を取っ替え引っ替え読んでいけばどうなる?
 どうなるんだろう?
 どうなるんだろうか・・・。
 実に・・・☓☓☓☓☓☓☓☓☓☓。
 まぁ、実際のところ、少なくともポーランド語に関して言えば、だが、4ヶ月取っ替え引っ替えはムリそうである。何故なら、そこまで本が手に入らないであろうから。金欠の問題を差し置いても、果たしてこんなに早いペースで学習を進めていった結果、4ヶ月最後の日に至るまで、読み終える毎に新しく本を手に入れられるほど、ここ我らが日本国には日本語で著されたポーランド語の学習書があるのだろうか、ということだ。
 別に4ヶ月に拘らなくてもいいと言えばそうだが・・・謂わば、俺にとっての、言語がある程度習得できるかどうかについて、ひとつの区切りの期間なのだ。
 今にして考えてみれば、4ヶ月ひたすらひとつの学習書を延々と読んでいた、この行為自体が有り得ない。だから今の俺にとっては、そもそも4ヶ月ひとつの言語に打ち込んでみるとどうなるか、を実践することすら不可能に近い。ここまで色んな言語の本を揃えてしまうと、ね・・・(30を超えている)。
 だからこそどうしても考えてしまう。今4ヶ月ずっとひとつの言語をやり続けると、一体・・・。
 さて最後にどうやって暗記しているか、だが、これは至極単純。
 「意味のまとまり毎に覚える」だ。
 以前既に言及しているが、これは長いこと暗記法として揺るぎない効果のある方法であると俺が信じているもののひとつである。まぁ、実際はそこまで大層なものではなく、つまりはさっさと暗記を進めるためにはどうやればいいか、というものぐさ精神の充足に繋がるものでもある。
 それに、分類上、孤立語(中国語など)でない言語の学習中には、こうやって覚えてゆく方がいいに決まっているのだ。
 たとえば、フランス語で「古い」「年をとった」は「vieux(ヴィユー)」と言う。これは原形なので、イコール男性単数形だ。
 では、「男」は「homme(オム)」と言うが、「年寄りの男」は「*(un) vieux homme」かというと、これは間違いで、vieuxの被修飾語となる直後の男性名詞が母音で始まっていれば、「vieil(ヴィエィ)」という特別な形になる。「母音で始まっていれば」、である。「母音で始まっていれば」、ではない。
 そして、形容詞の女性形は大方、原形の語末に-eを付けることによって形成される。たとえばintelligent > intelligente(アンテリジャン > アンテリジャント; 賢い)といった具合で、一方原形が-xで終わっていれば、heureux > heureuse(ウールー > ウールーズ; 幸せな)というように-xが-seに変わるが、vieuxの女性単数形はならば*vieuseか?というとそうではなく、vieuxからではなくvieilから形成され、「vieille(発音はvieilと同じ)」となる。こういうことは辞書やらで数度、実際の使用例を抜きにして言葉とその活用のみを目にするよりも、修飾語と被修飾語のペアを見ながら覚える方が断然ためになる。
 言語の学習法に「正解」はないであろうが、効率良いものであると確信できる方法が見い出せれば、是非ともそれに縋って、できるだけ精神の負担を抑えつつやってゆきたいものである。
 俺はものぐさだから、さっさと覚えたいが為に熱意が楽する方楽する方へと常に向いている。
 今でも、格による曲用の一覧表を作ったりするのは大好きなんだけどね。
 それが苦にならないから、駆け足学習法の欠点を補う術もあって勉強が捗ってるって感じなのかなー。
 では最後に、件のポーランド語学習書・第20課の本文を書き出しときます。こんなものが載ってるんだってことで。

ヤク・シェン・マチェ? ポドブノ・フチョラィ・フ・ポルスツェ・スパドゥ・ピェルフシ・シュニェク
Jak się macie? Podobno wczoraj w Polsce spadł pierwszy śnieg.

フ・ポルスキム・インテルネチェ・ポカザノ・ズディエンチャ・ザシュニェジョヌィフ・ウリツ. チ・イェスト・バルヅォ・ジムノ
W polskim Internecie pokazano zdjęcia zaśnieżonych ulic. Czy jest bardzo zimno?

オト・モイェゴ・ポヴロトゥ・ド・ヤポニイ・ミネウォ・ユシュ・プゥトラ・ミェションツァ
Od mojego powrotu do Japonii minęło już półtora miesiąca.

ヂシュ・イェスト・ピェルフシ・リストパダ - ヴィェム, ジェ・ト・ヂェニュ・フシストキフ・シュフィェンティフ
Dziś jest pierwszy listopada - wiem, że to dzień Wszystkich Świętych.

ヴィェレ・ミ・オポヴィァダノ・オ・ティム・シュフィェンチェ・イ・ジャウイェン, ジェ・ニェ・モゲン・ゴ・ゾバチチュ・ナ・ヴワスネ・オチ
Wiele mi opowiadano o tym święcie i żałuję, że nie mogę go zobaczyć na własne oczy.

ニェダヴノ・フ・ポブリジュ・ナシェゴ・ドム・オトファルト・ノヴィ・スクレプ・ズ・ウポミンカミ
Niedawno w pobliżu naszego domu otwarto nowy sklep z upominkami.

スプシェダヨン・タム・ポルスキェ・ボンプキ・ホインコヴェ! ゾバチフシ・イェ, バルヅォ・シェン・ウチェシワム
Sprzedają tam polskie bombki choinkowe! Zobaczywszy je, bardzo się ucieszyłam.

プシェスィワム・ヴァム・ポズドロヴィェニャ・オト・モイフ・ロヂツフ
Przesyłam wam pozdrowienia od moich rodziców.


 名詞の格毎の特徴的な語形についての記憶はあやふやだし、過去形すらまともに覚えてないけど、ここまでのものが暗記できる。
 この文章、動詞の非人称能動過去形(pokazanoとか)と完了体副分詞(zobaczywszy)が出てきてるんですよ。概念的になんだそりゃって感じなんですが、言葉としては頭に入ってて、取り出せます。
 完了体なんて、初出のページをまだ見てすらいない。
 ロシア語、セルビア語、クロアチア語とやってきてるんで、どういうものかは名前見ただけでわかりますけどね。簡単に言うと、対になるものに「不完了体」ってのがあって、フランス語・travailler(トラヴァイエ=働く)を例にとると、

 不完了体=j'ai travaillé(ジェ・トラヴァイエ=私は働いた)
 -「働いた」という今より過去の動作について言及しているだけで、それが終わったものかどうかについて問題にしていない。たとえば、これを言った時点はサボリ中なのかもしれない。

 完了体=j'ai fini à travailler(ジェ・フィニ・ア・トラヴァイエ=私は働き終えた)
 -働き終えた、今日の自分の仕事はもう終わり、今日はもう働かない、退勤済み。

 ということ-この違いです。
 なんかもうね、勉強が進んでる気がするのなら、これでいいんじゃないのって。

2012年12月6日木曜日

「さいいん」と「あわじ」

 俺が今しているバイトは烏丸にあり、そこへは阪急電車で通っている。
 昨日の帰宅時、西院に電車が止まった折に発せられたアナウンスが「淡路」と聞こえて驚いた。
 何故そう聞こえたか?
 そのとき以外に普段聞いている「西院」のイントネーションと異なっていたからだと思う。
 俺の母親が、「ナルニア国物語の「ナルニア」は「アルメニア」からきてんのかなあ?」と俺に訊いてきたことがった。
 「さいいん」と「あわじ」、「ナルニア」と「アルメニア」・・・後者の語感は確かに互いに似ている。母親がそう勘違いしたのもムリはないと思う。
 ちなみに、アルメニアは現地で「ハヤスタン(Հայաստան)」と言う。「ハイ(հայ、アルメニア人の自称)の国(或いは土地; ペルシャ語由来)」という意味だ。「アルメニア(Armenia)」自体は、アルメニア人の伝承に、彼らの祖先として「アラム(Aram)」という人物がいたとされ、そこからきているらしい。-iaってのは、ラテン語由来の、「~の土地」を表す接尾辞だ。「ナルニア」はイタリアの地名「ナルニ(Narni)」が元になっているそうだ。この2つの地名はその成立に於いて互いに一切関係がない。
 しかし「さいいん」を「あわじ」と勘違いする人はそうそういないと思う。勘違いした俺ですらそう思う。
 この話の肝はイントネーション。
 ・・・これ、発音を実践したりすることで、または聴覚を以って言語を効率良く覚える際に利用できないかな?
 日本語文を音読し、そのイントネーションを保ったまま他言語を発音すると、自身に馴染みある音の調子の助けを借りて暗記が楽にならないだろうか、という思いつき。
 勿論、正しい発音を後々身につける際には、この試みがはっきりと阻害として実感してしまう羽目になるであろうが、今はとりあえずどうでもいい。
 他言語を母語として口にする。
 思考を起点にした発声が言わずもがな理想であるが、それが待ちきれない、或いはペラペラを手っ取り早く気取りたければ、この試みを繰り返すことで滑らかな発話が叶うようにならないだろうか?
 俺は日々、早々に他言語を多少なりとも身につけたがるせっかちな己の欲望を充足させるべく、どう学習を進めていけばいいのか考え続けている(その時間を使って同時に勉強もできてれば素晴らしいが・・・)。
 絶対にあると思うんだよな・・・労せず多量のことを、それも素早く暗記できる方法が。
 不思議と、一度か二度くらいしか目にしたことのない言葉でも、ずっと覚えているものがある。もし音声も併せてかつて覚えたものであれば、文字と音声という2つの要素が効力を発揮して記憶から消え難いものになっているのであろうと想像がつくが、俺の場合は実際なんと発音されるか確認したとはまず考えられない。特に数年前知った言葉は。今でさえ自分が学習経験のある他言語の実際の発音を積極的に確かめようとしてないんだから(最近ようやく、YouTubeで他言語による映画やニュースを観たり聴いたりするようになった)。
 そういうものは何故長い間覚えていられるのか?
 この疑問に答えるためには科学的な考察が要求されるというのであれば、独り家の中机に向かって唸っているだけではほぼ確実に解明できない問題だと思うが、この驚異的な記憶力の発揮が、理想的な暗記法として唯一の価値あるものとは限らないので、色々と考え続けて無駄はないと思う。というか、そう思いたい。
 ただひとつ、考え続けることの欠点があるとすれば、それは理想的な暗記法を探るために繰り返し文章を読んでいる間に、暗記法の実践とは関係なくいつの間にか言葉を覚えていってしまうことだ。いや、暗記ができていっているのなら当然歓迎すべきではあるが。
 ちなみに、少し前まではドイツ語ばかりを読んでいた。
 今暗記法の模索にあたって利用しているのはアルバニア語である。
 語感が似ている他の言語を知らないので、言葉ひとつとっても物凄く覚え辛いことが理由である。これがスラスラ覚えられる方法が編み出せたら、その方法は本物であろうと。
 ところで「アルメニア」と「アルバニア」は似ている。しかし、「アルメニア」の本来の名がこの音とまったく違う「ハヤスタン」であることに似て、「アルバニア」はアルバニア語で「シュチパリア(Shqipëria)」と言い、実は互いにさっぱり関連性のない名前だ(正式な国名としての名は「Republika e Shqipërisë(レプブリカ・エ・シュチパリサ=アルバニア共和国)」、アルメニアは「Հայաստանի Հանրապետություն(ハヤスタニ・ハンラペトゥテューン=アルメニア共和国)」)。
 主題と全然関係のない話だが、こうやってヨソの国名が現地でなんと言われているか知るのはすごく面白いのでオススメします。で、現地での名と日本語名だけでなく、多言語でなんと言われているか調べると更に倍々で楽しい。
 例を挙げると・・・そうですね、現代ヘブライ語を勉強していたときに知った「ヤヴァン(יוון / yavan)」って名にはびっくりしました。どこだと思います?
 まあググれば一発ですが、当てずっぽうでももし正解の国名を言えた人はスゴイ。投げやりな気持ちでいてすら「あの」国が脳裏に浮かんでくることは普通ないと思うから。ここ日本に於いても有名な国ではあるんですが。
 ヘブライ語と同じくセム系の言語であるアラビア語では「アル・ユーナーン(اليونان / al-yūnān)」で、ラテン文字で見ればちょっと似てると思えんこともないでしょ?まぁ、語感はまったく違いますけどね。あ、「al-」ってのは冠詞なんで、これ込みで見ないでくださいね。
 この国がヨソで言われている名には大きく二通りあって、ひとつがこの「Y-N-N」系、というかアラビア語系です。たとえばアラブの影響色濃いトルコ語では「ユナニスタン(Yunanistan)」と言います。日本語名には、ラテン語由来であるもうひとつの系統が採用されています。
 原語では「エラザ」と言いますが、この国はかつて、「ヘ(he-)」で始まる名で呼ばれていました。どういうわけか現代に於いては、ノルウェー語(デンマーク・スウェーデン語名はラテン語系)やハワイ語で、この国のかつての名の語頭が原形を留めていることが非常に面白い。
 長い文章が読めなくても、日常的な単語が10個も理解できなくても、他言語に関わるとこんな小さなことで大きな楽しみが享受できる。言語ってのはホントにいいもんだなあとつくづく思うわけですよ。

2012年11月27日火曜日

「ニューエクスプレス タミル語」!

 遂に出ます!待・待・待・待・待望の言語学習書!

 ニューエクスプレス タミル語だぁ~!宮本城 著、3,150円!

 ・・・いや、この著者のことは全然知らんけどね。初めて名前聞いた。まぁ、名前を覚えている言語学者なんてそもそも殆どいないんだけど・・・。小泉保黒田龍之助くらいかなぁ。デュメジル(Georges Dumézil)、ソシュール(Ferdinand de Saussure)、グリム(Jacob & Wilhelm Grimm)、シャンポリオン(Jean-François Champollion)とか常識的な連中は別でね。
 来月発売ですが、白水社ホームページではもう情報が掲載されており、シリーズの他の書籍と同じくちょっとだけ中身も見られます。
 う~む・・・とりあえず目を引いたのは、タミル語に付記されている仮名表記は文語読みだって点だな。文語読みとゆうか、文字を書いてある通りに読む。即ち文語調。
 たとえばஇலலைはラテン文字のILLAIに相当しますが、口語では「イッライ」でなく「イッラ」となる・・・前に何度も書きましたね、こういうこと。இருககிறதுIRUKKIṞADU、しかし「イルック」-綴られている文字と、実際口にされたときの発音との乖離が激しくて、文語読みに準じて言葉を発していると全然通じないほどなんだとか。
 アラビア語とは大違いだよね。たとえば日本でも有名なアル・ジャズィーラってあるじゃないですか、ああいうニュース番組なんかでは、地方毎の特色が強く出た方言「アーンミーヤ」ではなく、「フスハー」(正則アラビア語)でキャスターは喋りますし、討論の出演者たちもやっぱりフスハーを口にします。
 アーンミーヤは、それが内包する多様性を文字として表現するには十分な調整がなされていないものばかりなので普通文章化はされないんですが、それでもエジプト方言、マグリブ(モロッコ)方言、チュニジア方言の文は読んだことがあります。・・・わけわかんないですよ、本当に。これホントにアラビア語なの?って思いますから、フスハーしかやったことないと。たとえばアラビア語の標準的な語順はVSO(يدرس الطالب العربية(yadrusu ṭṭālibu l-‘arabīyata=学んでいる・その学生は・アラビア語を))なんですが、エジプト方言だとSVOですからね(他の2つの方言についてはそこまでは知らん)。つまり英語とかと一緒。俺なんてこれだけで別言語であるかのような印象を受けるわ。
 ま、もしかすると、タミル語も、電波に言葉を乗せる際には文語読みが為されているのかもしれないですけどね。全然知る機会ないですね、そんなのは。
 とにもかくにも、これは素晴らしい出版と言わざるを得ないでしょう!
 タミル語に興味ない奴すら買え!
 そして白水社に「タミル語は売れるのかっ?」と勘違いさせて、タミル語関連出版物のための予算が出るように導いてゆく、と・・・。
 いや、俺白水社って実はあんまり肌に合うところじゃなくて、大学書林の方がずっと好みなんだけどね。
 なんで大学書林、タミル語の本出してくんないのかな。ゴート語とかサーミ語パンジャービー語その他、タミル語以上に超絶マニアックな言語の語学書はあるのに・・・。

2012年11月26日月曜日

Meine Kleine Nachtmusik

 最近、つい口ずさんでしまう曲が2、3ほどあります。
 好きな曲を口ずさむとき、人間は大方心が落ち着いたり、辛い状況の最中にあっても気力が取り戻せたりするものでしょうか?
 仮に俺もそういう人間であるとして(自覚はない)、しかしこの「最近つい口ずさんでしまう曲」については、家の外でふとその旋律が頭の中に浮かんでしまうと・・・もう精神状態は最悪です。
 その音楽がじっくり聴くことのできる環境へ-つまり自宅へすっ飛んで帰りたくなる。
 とても悲しい。
 私が初めてポピュラーミュージックを聴き出したのは、小学校高学年の頃だったと思います。
 小学生の頃催された合唱コンクールかなんかで、スピッツ空も飛べるはずを歌うことになったんですよ。
 スピッツってなんじゃらほい?-私はポピュラーミュージックについて何も知りませんでした。
 そこから本格的にどういうものが、今に至る己の音楽遍歴が形成されてゆく取っ掛かりになったのかはもう思い出せませんが、とにかくポピュラーミュージックとの出会いは、スピッツのその曲によるものでした。
 そこから長いこと経ちました・・・。しかし、好きな曲を脳内で再生して、何もかもが手につかなくなる寸前に陥るほど精神的に参る経験は初めてです。自分で自分に驚きましたね、ホント。
 そして今現在はゆっくりそれらの曲が堪能できる環境に戻ってきております。
 しかしまた明日には・・・。
 そう考えただけで怖いのです。
 で、なんて曲なのよ?・・・いつか話題にできたら、いいんですけどね。ちょっと今はね。その曲が何を媒体に提供されているかってところから話を始めないといけないからねぇ・・・。ここじゃ話題にしたことのないものなんですが、そもそもそれ以前に、まだまだまともにその媒体について語ることができるほどそれと深く付き合えていないので、全然お話できたもんじゃないです。

 Schade!

2012年11月9日金曜日

歩いてるだけなんてツマンネー

Dubrovnik je jedan od najljepših gradova na Jadranskom moru.
On se zvao Biser Jadrana od srednjeg vijeka.
Ograđen kamenim zidovima, cijeli grad kao da je jedan povijesni muzej,
koji se ponosi dragocjenim spomenicima. Svake godine dolaze turisti iz cijelog svijeta.
Naša Tomoko je došla prvi put u Dubrovnik. Ona se šetala po cijelom gradu,
obišla je sve muzeje, palače i druga mjesta. Kaže da joj se Dubrovnik jako sviđa,
i da je vrlo sretna što je došla ovdje.
Tko dolazi u Republiku Hrvatsku, obvezno posjeti ovaj grad.
Nema nikoga, kome se ne sviđa Dubrovnik. On je zaista biser u našoj zemlji.

 何語でしょー、か?
 クロアチア語です。
 CDエクスプレス セルビア・クロアチア語の最終第20課本文丸写しです。「写し」と言っても、頭の中に焼き付けたものを、ですけどね。それが著作権侵害(かな?)の言い訳になるとは思ってませんが、何かの語学書の文章を記事内に綴る際毎回言っているこれは常に本当のことです。誰かにスゲエと言って欲しいわけじゃなく、己が過去の記事を見返して俺スゲエと言いたいが為に必死こいて暗記しとるんです。勿論ウソです。ただ、ふと昔書いたものを見返してみると、今じゃさっぱり思い出せない文章がずらずらずらーっと綴ってあって、それを目にしたときは俺スゲエ、いや、凄かったなって思っちゃいますね。
 さて俺は何故クロアチア語の文章を書いたのか?
 今回の記事の主題への導入のためなんです。
 実はこの文章、俺はソラで言えます。一度も躓かず、スラスラとってわけにゃあいかないんですが、とにかく、綴りをバッチリ覚えて、且つこれらの言葉を音声でも再現できるようになってます。
 そりゃあもうしつこくしつこく復唱しましたとも。
 俺は今、ようやく文字を綴るばかりの勉強から脱却して、口からも自由に発せられる他言語の学習方法の構築について毎日しつこく考えているところです。
 なんせひとりなんだ。独り。会話で発話の能力を培うことは望めないので、独りでもペラペラになれる奇跡のような勉強法を編み出さんとしているわけだ。
 結構楽しいですよ。
 なっかなか光明が見えてこねえから。
 ああでもないこうでもないってね。
 いつの間にか、冒頭の長文を一気に諳んじられるようになったのは、ああでもないこうでもないを繰り返していた結果なのかなあ・・・。
 ちなみに諳んじられるのは20課本文だけで、それ以前のものはからっきしです。すごく時間をかけて、ゆっくりとじゃないとムリだね。まず課毎の内容を思い返さないといけないし。
 もうこの20課本文は口調で覚えちゃってる。「Dubrovnik」と言ったら、「Dubrovnik je jedan...」と続いちゃう。
 すごく理想的ですよね。厳密には、「理想的な覚え方だと俺が思っている方法の内のひとつ」、です。
 これは、「反射」を利用したくて実践した結果なんです。
 小売の接客業の店員やってりゃ、レジに物を持ってこられたら「いらっしゃいませ」ないしは「ありがとうございます」と言う。
 そんな風な。
 円滑な日々の様々な営みは、「反射」と「習慣」に支えられています。いるはずです。朝起きたら歯ァ磨く。顔洗う。外から帰ってきたら手を洗う。嗽をする。3食摂って、尿意を催せば排尿をし、便意を催せば排便をし、寝る前には風呂に入って、電気消して就寝。朝になったら起きる。
 俺が実践したのは、一文ずつ、つまりはピリオドによって区切られる文章の冒頭の一語或いは二語ほどだけをPCのメモ帳に書き、それ以後綴られているものを思い出しながら諳んじるという発声の訓練です。
 実は、別に会話したくなったわけじゃないんです。ただ、文字だけでなく、音声を用いることででも頭の中の日本語を別の言語にして表現できたらいいなと今更ながらに考えたのがこの訓練の発端でして。
 そしてもうひとつ-忘れないためには、覚えておくためには、二重三重、四重五重の記憶法を用いれば他言語をより強く頭の中に留めておくことができるのではないかと考えたのです。その記憶法として相応しいと俺が思えたものの内のひとつが、「音声で再現できること」だったわけです。
 四重五重とは語感を追求した為出てきた表現なので、本当に五重まで数えられるかどうかわかりませんが・・・とにかく俺が思いついた記憶法とは、こんなものです:
  1. 言い辛い言葉は音節を区切りながら覚える(例: DubrovnikならDub-rov-nik)
  2. 意味の固まりで覚える(例: od srednjeg vijeka=中世から < srednji vijek 生格)
  3. 反射で覚える(上述の通り)
  4. 口調や音韻で覚える(直上の反射に準ずると言える)
  5. 綴りを覚える(文字に起こそうと思うと必要。基本的に外せないことだと思うが、後述するアイルランド語などで特に極めて重要)
 5つ目までいったね。見て判る通り、まったく目新しい行為はありません。これらすべてを利用して覚えようとする行為に意味があるのです。ちなみにこの記事冒頭に出てきたことを鑑みて1.の例にはDubrovnikを挙げましたが、これ自体は特に言い辛い言葉だとは思いません。最近覚えた言葉だと、そうですねー・・・ドイツ語なんですが、die Abschlussprüfung des Sprachkurses(ディー・アプシュルスプリューフン・デス・シュプラハクアゼス=語学コースの終了試験)とder Aushilfskellner(デア・アウスヒルフスケルナー=ウェイターのアルバイト)は、何度言い直してもその度どもりましたね。
 更に今後作れるとしたら、「和訳を見ながら諳んじる」でしょうかね。
 これは行なって至極当然の訓練なのですが、まだやってません。ある言語の文章を読みながら日本語が同時に頭の中に浮かんでいないなんて有り得ないですからね。隣に添えられている日本語文を改めて確認しようという気持ちにならない。
 この訓練は、セルビア語、クロアチア語、ドイツ語、イタリア語、アイルランド語にのみ適用しています。他の言語の学習時に適用できない理由があるのではなく、単に最近勉強しているのがこれらの言語だったからというだけです。
 正しく告白すると、元々、イタリア語を勉強していたとき、効率的に覚えるためにとふと考えついた勉強法でした。思いついたということが重要なのであって、実践第一号の対象となる言語は別になんでもよかったんです。
 最初に思いついたのは、「反射」でした。
 結構効果があったと思います。
 そしてこれを続ける内、声に出すことの楽しさを見出し始め、記憶法として真の効果があるかどうかはともかく、この訓練を勉強の中に取り入れる抵抗はまったくなくなっていったことは大きな利点だったと思います。
 そして次に、「反射」は本当に使えるのか?と、既に語学書を読了していたセルビア語・クロアチア語と、アイルランド語も暗唱できるようになるかしらと、本を読み返してみました。
 前者はうまくいきました。
 後者はイマイチ。
 何故なら、アイルランド語の発音が未だに滅茶苦茶たどたどしく、ほぼまともに身についていないからです。

 ヴィー・ラン・ゲールゲ・エル・シュール・エゲ・アンシン・ウーアル・サ・チャフタン
 bhí rang Gaeilge ar siúl aige ansin uair sa tseachtain
 週に一回、彼の下でアイルランド語の授業が行われていた

 とか

 ゴ・ロ・ミーリャ・アガト・アス・ド・ハルジャス・ヌーアル・ヴィー・メーグ・スタジェール・イ・ンガーリャ
 go raibh míle agat as do chairdeas nuair a bhí ag staidéar i nGaillimh
 ゴールウェイで勉強していたときは本当にありがとうございました

 といった一音節の言葉なら大丈夫ですが、

 アグス・ホサ・シェー・ヘーン・アグ・スクリーアウ・ダーンタ・チリー・ゲールゲ・アグス・チリー・ヴェールラ
 agus thosaigh sé féin ag scríobh dánta trí Ghaeilge agus trí Bhéarla
 そして彼は自分でもアイルランド語と英語で詩を書き始めた

 とか

 ター・スール・アガム・ゴ・ワー・メー・スケーラ・ウェト・ゴ・ルーア
 tá súil agam go bhfaighidh mé scéala uait go luath
 あなたからの手紙がすぐに手元に届けばいいなと思っています

 という多音節語になると、何秒か読み方を考えてしまいます。ところで「bhfaighidh」の読みは上に書いた通り「ワー」だと思うんですが、「oíche mhaith(おやすみ)」の「mhaith」も「ワー」。こんだけ綴りがまったく違うのに読み一緒なんてすごいよね。フランス語に同音異義語が多いという欠点なんてどうでもよくなっちゃうね。どうなってんだアイルランド語、って思わずにはいられないでしょ?誰だってたぶんそう。アイルランド人だっておそらくそう。でも現代に生きるアイルランド人にとやかくゆーのはやめたげて。こういった不条理な綴りを確立させたのは彼らではないのだから・・・。
 CDは相変わらず聴いてません。
 だって、まだるっこしいんだもん。
 トロイ。
 自分でスラスラ諳んじられるようになるのが目的なのに、初学者向けのダラダラと小休止の連続する発音聴いてられんっての。「普通のスピード」とか言われる読みでもかなり遅く感じる。
 しかし今考えてみると、トロイ分、どう発音されるか気になる語の確認にはもってこいなんだよな。しまったなぁ。
 しかしなんとか諳んじようと努力したことは他の言語の勉強にあたってのこととなんら変わらないので、暗記はできました。
 「Dubrovnik ...」の文は、最終課にしてはカンタンだなと感じていたので良い達成感を得られなかったのですが、アイルランド語(ニューエクスプレス アイルランド語; 扱っているのはコナマーラ方言)の第20課を暗唱できるようになったときには本当に嬉しかったですね。

Go raibh míle maith agat as do chairdeas nuair a bhí mé ag staidéar i nGaillimh.
Níl féidir liom a rá cé chomh buíoch díot is atá mé.
Mura mbeifeá ann, tá mé cinnte nach n-éireodh liom Gaeilge a fhoghlaim.
Tá beagnach coicís agam ó tháinig mé ar ais abhaile don tSeapáin.
Airím uaim na laethanta a bhí agam i nGaillimh - seisiúin ceoil sna tithe ósta, piontaí Ghuinness
agus mar sin de. Ba mhaith liom dul ann arís an samhradh seo chugainn.
Abair le do chairde agus do mhuntir go raibh mé ag cur a dtuairisc.
Tá súil agam go bhfaighidh mé scéala uait go luath.

Mise le meas,
Mai

 ・・・という本文でした。
 やー、すごいですね。俺。なんて発音したらいいのかわかんない言葉だらけなのに覚えてる。ま、今までそうやって勉強してきたんだけども。
 そう、不思議だった。
 たとえばベトナム語には声調があって、それらが正しく再現できる自信がないし実際聴いても弁別がよくわかんなかったので口に出すことは諦めて、ひたすら文字だけを頼りにベトナム語は勉強していたわけだけど、なかなか身につかなかった(そして今ではパーっと忘れた)。
 アイルランド語に関してはもっとヒドい-そもそもなんと読むのかわからない言葉だらけなのだ。一応、読みについては学習したが・・・ニューエクスプレスの解説だけじゃざっくりもざっくり、例外的な発音が殆ど身につかない。そしてアイルランド語の言葉は基本的な読み方を知っているだけでは太刀打ちできない言葉が本当に多く存在する。・・・ま、かの名著・「アイルランド語文法 コシュ・アーリゲ方言」を持ってるんだから、それと併せて学習せーよって話なんだけどね。メンドいじゃんそんなの。
 そんな、読み方のわからない言葉の洪水に飲まれそうになっても、息継ぎは必ずできており、溺れてしまうことはなかった。不思議なことに、何故だかガンガン暗記していけたのだ。
 人の記憶って、一体どういう仕組みになってるんだろうか・・・。
 これが解明できれば!そう思わずにはいられない。何学で扱ってんのかな、これ。
 さて、上で挙げた4つ(プラス1つ)の記憶法、人間、他言語を学習する際には無意識に実践しているものなのかもしれません。俺だってこれらを活用して勉強していたのかも。
 ただ、実践しようと意識して学習に臨むと、効果の程は実に明白です。
 そしてなんと、この方法を続けている内に、次第に綴ることが億劫になっていきました。この俺が!綴ることが億劫にだと!信じられないです。自分で自分が。
 だってそんなことせんでも頭に入っちゃうんだもん。
 まぁ実際綴りが覚えられているかどうか確認するときにはタイプするけどね。
 ノートにはもう1ヶ月くらい何も書いてないなぁ・・・。
 ただ実を言うと、こうして訓練を始める前から、ノートに何かを書くことは億劫になってた。タイプした方が早いじゃんと。勿論字を書くよりタイプする方が早く文字を示すことができるなんて10年くらい前から悟ってたことだけど、それでも俺は実際にペンを持って文字を紙の上に綴ることが好きだった。それがここ最近遂に面倒臭く感じてきたわけだな-っつっても、特にラテン文字については、なんだけどね。上で俺、最近何語勉強してるって言ってた?クロアチア語、イタリア語、ドイツ語、アイルランド語はどれもラテン文字を正書法に持つからね(セルビア語はキリル文字。前書いた覚えがあるんだけど、俺キリル文字好きじゃないんだよね。だからそもそも書きたいとあんまり思わない)。とりあえず今は特にタイピングだけで、何かを綴ることに対する欲望は満たされてるから、これでいいのだ。
 訓練を始める前に、そして今もPCで易易とタイプできない文字を正書法に持つ言語を勉強しているときにはペンを握っていた。即ち、タミル語、チベット語、タイ語。特にチベット語はようやくキーボードをインストールして、フォントはそれ以前からかなり色々PC内に既に持ってたのに何故か表示されないのでどうしようもない。Lexilogosのチベット語オンラインキーボードには欠陥があるし・・・「チベット語 言語学習日記」を書いてたときからわかってたことなんだけど、いい加減鬱陶しくなってきたので利用をヤメた。いやよくできてるとは思うんだけど、ねぇ・・・そう思えるだけにものすごく勿体無いんだよな、あれ。
 とまあ色々と、「確実に」、「素早く」、「後々忘れ難い形で」、覚えられる方法を今模索しとるわけです。
 今後何か画期的な、それこそ奇跡のような記憶法が確立させられたとして、それが為されたと判断できるのはどういうときだと思います?
 ・・・一切前知識のない言語をスラスラと覚えていき、すぐ己の言葉として用いることができると自他共に認められるとき、これ以外にはないでしょうね。
 そこまで記憶法を追求しなくても、とりあえずある程度の成果は出てるんだからいいじゃんと考える自分もいますが・・・究極が欲しいですね、やっぱ。
 急がば回れとか石の上にも三年とか、拙速を諌める言葉がよく聞かれますが、どうせできなかった人の言い訳なんだと思えば、確かにそうでもあるんじゃないんですかね。
 俺は近道したくてしょうがないです。
 でも、近道の途中に立ち塞がるすごく大きな壁を「近道できるから!」とせっせと取り壊していくのと、ただ黙々と歩けばいいだけの遠回りの道を往くのとでは、・・・結果的にどっちが好いのでしょうかねぇ。
 ただひとつ言えることは、俺は歩いてるだけなんてツマンネーことは真っ平御免だと。

2012年6月9日土曜日

フォントに翻弄されまくっている多言語学習生活

前回の記事から派生した話題でお送り致します。

 何について?-フォントについて!
 リトアニア語を綺麗に表示できるかどうか、それも確かにフォント選択の際に吟味の必要性を感じることではあったんだけど、こんなのショボイショボイ。
 ベトナム語の声調記号を付記した母音を真っ当に表示させるフォントの方が少ないことに気づきました。
 ふとまたベトナム語を勉強したくなって、昨日今日とやってたんですが、タイプの練習も改めてやろうと打ってみたら・・・セリフ系はTimes New RomanPalatino Linotype以外全滅だった気がする。以前ここでベトナム語の学習成果を記していた頃はTimes New Romanを使っていました。昔からフォントに対する拘りはあったんですけど、最近目覚めたようにネット上で自分の気に入るフリーフォントを収集するという発想は以前はまったくなかったので、ラテン文字が格好良く表記するためにはTimes New Romanを、と機械的に利用していました。Times New Romanに似た見た目のGeorgiaも好きなんですが、Times New Romanに比べてかなり幅を食う仕様になっていて、その為に使い辛い場面がよくあったりするので、結局Times New Romanを選択することの方が多いです。Georgiaは一応最近も使用例がありまして、アイヌ語学習成果3日目で「第○課: ○○」という見出しにあったラテン文字の表記がこれで為されています(だったはず・・・)。幅が太いことによるTimes New Romanとの見映えの違いが利用できた好例です。迫力出ますからね(上がTNR、下がG、サイズは24、イタリック体&ボールド):

Labai malonu susipažinti su Jumis!

Labai malonu susipažinti su Jumis!

Очень приятно с вами познакомиться!

Очень приятно с вами познакомиться!

 さて、ベトナム語をデジタルで綺麗に表示させる方法なんですが、別にTimes New Roman、Palatino Linotypeでも悪いことはないです。
 ただ、前回お見せした通り、StonehengeFeather・・・なんとかのような、OSに最初から組み込まれているフォントにはない魅力を持った字体が、どこかの誰かからの手を借りて表現可能であると知れば、ベトナム語にもそういうものがないかなと探してみたくなりまして。
 で、見つけたんですけど、何故だかその後で、「ラテン文字限定でいいから、どんな言語のどんな表記であっても綺麗に表示できるフォントというのはないのか?」と考え始めちゃいまして、ベトナム語の表示に特化したフォントのことはほぼどうでもよくなりました。
 色々試してみたんですが、TITUS Cyberbit Basicってのが万能に近くて、凄いフォントです。俺のOSはXPなんですが、このフォントは最初からあったものなのか、どこかから調達してきたものなのかは覚えてません。ただ、ベトナム語表記に適しているとはちょっと言い難いです。ベトナム語向けなら、これと比べるとTimes New Romanの方がいいですね。記事の最後に使用例を示してますんでどうぞ。
 ある表記の見た目に対してあるフォントが使用に向いているかどうかの判断は、メモ帳を開き、適当に文章を書き、あとはひたすらフォントを選択しまくって逐一表示の変化を見ていくという手順を以ってしています。言わずもがなですが、滅茶苦茶面倒臭いです。でもこれ以外に良い方法が思い当たらない。フォントファイルを開いて直接字体を見るという方法は意外に使えなくて、たとえばAndalusというアラビア文字向けのフォント(السلام عليكم)がありますが、フォントファイルを見ても記載されているのはラテン文字だけであり、実際こうして使ってみないとどんな文字の表示に変化を齎すのかわからないことが多いです。メモ帳での確認で言えば、フォント設定画面の「文字セット」の項目を参考にすればフォントの変更を決定するまでもなかったりするんですが、できれば文章単位で見た目の確認をしたいし、それからだとわからない表記の不具合が潜んでいる可能性があります。「文字セット」だと多くても10文字程度しか確認できません(ちなみにAndalusのアラビア文字表記は「文字セット」で確認可能)。
 で、このTITUS Cyberbit Basicですが、メモ帳の「文字セット」からは、その項目に準拠した呼称で言うと、「欧米」、「ヘブライ語」、「アラビア語」、「ギリシャ語」、「トルコ語」、「バルト言語」(リトアニア語とか)、「中央ヨーロッパ言語」(ハンガリー語とか)、「キリル言語」、「ベトナム語」のサンプルが確認できます。ラテン文字の表記に事足りるだけで満足だというのは先に言った通りですが、ここに含まれているように、ヘブライ文字の表記がセリフの体裁で適うことも特筆すべき点です(אני רוצה לנסוע לירושלײם)。
 ところでこの内「アラビア語」の表記は「السلام عليكم」、こんなんで最低最悪の・・・って、あれ!?字の結合が解除されてるじゃん!どゆこと?メモ帳だとこんなことはなくて、ちゃんと結合されていて、尚且つTahomaっぽい見た目になります(つまりこんな感じ: السلام علیکم)。
 まぁなんにせよ、使えないってことがわかりますね。個人的にアラビア文字でサンセリフ系は有り得ないです。
 OSにデフォで入っているフォントだと、Traditional Arabicが好きです。Andalusも捨て難いけどね。Traditional Arabicでは、一部の文字が筆記体の如く表記されるところが評価点です。どういうことかと言うと(上: TNR、下: TA):

نًيِ مُحَمَّ سَمَة

ني محم سمة

 上と下とでは使われている文字に違いがあるように見えますが、同じ綴りです(ちなみに意味のある言葉ではありません。両者の間で見た目の違いが出ることのみを条件にしてテキトーに綴りました)。こういう処理をして表示するアラビア文字用フォントで今のところ知っているのは、このTraditional Arabicだけです。すごいですよね。「筆記体の如く」というのは、ネイティブはこういう書き方をすることが多く見受けられるからです。俺はしません。最初にアラビア文字を書き始めた際こういう風に書くとは習わなかったし、何よりこれ見れば分かると思いますが、こういう字体だとなんの文字が結合しているのか判断できない可能性があるんですよ。なのに好きなのかって?うん・・・まったくの機械的な表示じゃないところに、作成者のアラビア文字に対する敬意を感じるというか・・・これが使われることによって誤読される可能性を孕んでいても、他のフォントとは異なる魅力、それも替えのきかないものであるということが素晴らしいと俺は思うんだ。
 あと実用的に重要なこととして、母音記号が文字とくっ付かないで表記できるという点が挙げられます。上のTMRの方を見れば判りますが、「ني」についている母音記号がアラビア文字と融合しちゃってます。TAの方に付けていないのは、筆記体風の表示が解除されるからです。こんな具合に: نَيِ مُحَمَّ سَمَة
 ・・・ただ、すんごい細いところが難点。Times New Romanと比べると、二回りくらい幅が狭いよね。かなりサイズをでかくしないと字体の結合云々以前に読み辛くてしょうがないです。
 とまあ、こんな感じで、フォントに翻弄されまくっている多言語学習生活を送っています。
 結局は自分で作った方がいいって話になるんだろうなあ、フォントって・・・。
 それでは最後に、ベトナム語用フォントの使用例を筆頭に、表示に不具合のある例も交えつつ、5つのフォント(すべてセリフ系)で書き表されたベトナム語文章と共にお別れです。

(ニューエクスプレス ベトナム語 第4課 より)

Type I. フォント: VU Tha Huong

- Bác ơi, đây có phải là xe máy của bác không?
- Không, đây là xe của con trai tôi. Tôi không có xe máy.
- Còn cái xe mới đó là của ai?
- Cái đó là của con gái tôi.
- Có phải cả hai cái đều là xe Nhật không?
- Đúng thế. Người Việt Nam thích xe Nhật lắm.
- Chàu cũng muốn một cái bác ạ.

Type II. フォント: Palatino Linotype

- Bác ơi, đây có phải là xe máy của bác không?
- Không, đây là xe của con trai tôi. Tôi không có xe máy.
- Còn cái xe mới đó là của ai?
- Cái đó là của con gái tôi.
- Có phải cả hai cái đều là xe Nhật không?
- Đúng thế. Người Việt Nam thích xe Nhật lắm.
- Chàu cũng muốn một cái bác ạ.

Type III. フォント: TITUS Cyberbit Basic

- Bác ơi, đây có phải là xe máy của bác không?
- Không, đây là xe của con trai tôi. Tôi không có xe máy.
- Còn cái xe mới đó là của ai?
- Cái đó là của con gái tôi.
- Có phải cả hai cái đều là xe Nhật không?
- Đúng thế. Người Việt Nam thích xe Nhật lắm.
- Chàu cũng muốn một cái bác ạ.

Type IV. フォント: Times New Roman

- Bác ơi, đây có phải là xe máy của bác không?
- Không, đây là xe của con trai tôi. Tôi không có xe máy.
- Còn cái xe mới đó là của ai?
- Cái đó là của con gái tôi.
- Có phải cả hai cái đều là xe Nhật không?
- Đúng thế. Người Việt Nam thích xe Nhật lắm.
- Chàu cũng muốn một cái bác ạ.

Type V. フォント: Feathergraphy Decoration

- Bác ơi, đây có phải là xe máy của bác không?
- Không, đây là xe của con trai tôi. Tôi không có xe máy.
- Còn cái xe mới đó là của ai?
- Cái đó là của con gái tôi.
- Có phải cả hai cái đều là xe Nhật không?
- Đúng thế. Người Việt Nam thích xe Nhật lắm.
- Chàu cũng muốn một cái bác ạ.

2012年6月7日木曜日

未だ帰宅の適わない3冊・・・

未だ帰宅の適わない3冊・・・。

hausa

 まずはハウサ語の本。
 今日、業務がすべて終了した後で、帰る前に店の倉庫でパラパラっと見てみたんですが・・・いや~、なんかもう色々とすごい複雑そうでした。今からワクワクもんです。
 あと、ハウサ語で使われていることによって初めて目にするラテン文字があった!これはすごく意外だった。ネットでハウサ語についての情報をチョコチョコっと見たといっても、ホントに僅かも僅かだったんで、まさか正書法で驚かされるとは思わなかった・・・。
 ただひとつ・・・「r+~」って表記があったんだよ~!リトアニア語のアクセントと違って常に明確に書き表すのが正しいみたいだったから、これについては今からもう憂鬱だぁ・・・。
 ちなみに、アラビア文字は、目にした範囲では一切登場してませんでした。

gaeilge

 次にアイルランド語。
 もうホント、この本は見る度手に持つ度に著者は偉大であると思い返される。音声教材(なぜかCD-ROM。CD-DAではない)も同梱で言うことナシ!ハウサ語の方はCDなしです。声調言語であるとのことで、且つ、俺が見たページのひとつではイントネーションに図を用いて説明されていたくらい発音の習得が容易でなさそうな言語なんだから、付属でCDは必須だったと思うんだが・・・。
 アイルランド語の母音と子音は、性質によってそれぞれ2つのタイプに区別できる点が、ロシア語など、「硬音」「軟音」が厳然と分たれていている言語に似ています。a、o、u(とそれぞれの長音)を後ろに従えると「広音」に、e、i(とそれぞれの長音)を従えると「狭音」になります: 広音: daoine /iːnʲə/(人々) | dia /iːə/(神)。

filipino

 最後にフィリピノ語。
 語れることはまーったくありません。パラパラと見てすらいないなw この中では最初に注文した本なのに・・・。
 まぁ、「とりあえず」だよ!気になったら確保しとく!
 日本は言語学習者に優しくない国だからね。そもそも日本国唯一の国語である日本語を政府レベルで学術的に研究、保護する機関がない時点で・・・。国語なんとか会?だかなんだかあったと思いますが、たとえばl'Académie françaiseの実質的な役割、権威、強大な存在感に比べればゴミ程の価値もない。
 買って持って帰れたところでその学習は後回しになる可能性が多分にあるわけですが、そんなことはどうでもいいんですよ。当分パラパラ暇潰しに見るだけにせよ家になかったらそれすら適わないんだから。
 注文はしていないがまだまだ欲しい本はいっぱいあるし・・・利用してるサイトの「お気に入り」の本の登録上限数が100なんだけど、埋まったまんまだからね。
 そこで本を注文するようになった当初目をつけていたのが、以前読んだことのある良書、次が基本的なラテン文字しか正書法に採用していない言語、そんでその次、つまり今関心があるのは、「読本」です。本によって解説の詳しさの差はあれど、基本的な文法説明は内包されているはずなんで、ある程度規則を覚えてあとはひたすら文を読むことで頭に染み込ませる・・・ってのができないかなぁと思ってるんだけど、どう?文法規則を知らない、もしくは理解できてなくても暗記はできちゃう人間なんで、ひとつの勉強法として取り入れられないか考える価値があるんじゃないかと。
 さて上の3冊とそれに関係する話はここまでにして、学習成果を話題にしたいところ・・・なんですが、新たなことを学んだある3言語は、それぞれの最新の課の本文を覚えただけで文法についての説明をまだちゃんと読んでないので、和訳書いて終わりってことになりかねないのでまだやっちゃあいけないんですよね。
 それでもとりあえず文は書きたいんで、暗記の確認も兼ねて本文だけ書き逃げしとくことにしましょうか。

エテケヘ・カ・エケマハ・カ・トィトィ・ウㇱ・ペ・ネ・ナ. マカナㇰ・エイキ・ルウェ・アン
- etekehe ka ekemaha ka toytoy us pe ne na. makanak eiki ruwe an?

キナカㇻ・クス・ペッ・クㇱ・タ・カㇻパ・ルウェ・ネ
- kinakar kusu pet kus ta karpa ruwe ne.

エコㇿ・セタ・エトゥラ・ワ・エアㇻパ・ルウェ
- ekor seta etura wa earpa ruwe?

ルウェ・ウン. クコㇿ・セタ・カ, クマチㇼペ・カ・クトゥラ・ワ・カㇻパ・ルウェ・ネ
- ruwe un. kukor seta ka, kumacirpe ka kutura wa karpa ruwe ne.

クコㇿ・マキリ・エトゥラ・ワ・エアㇻパ・ソモ・キ・ヤ
- kukor makiri etura wa earpa somo ki ya?

エカシ・コㇿ・マキリ・クユピ・エィワンケ・シリ・クヌカㇻ
- ekasi kor makiri kuyupi eywanke siri kunukar.

 まずはアイヌ語ですね。
 なんと言っても名詞の「概念形」と「所属形」の登場が大きい。上の文章中で言えば、etekehe(きみの手)、ekemaha(きみの足)、kumacirpe(私(兄)の妹)、kuyupi(私(弟)の兄)の太字部分が「所属形」の名詞、ekor / kukor seta(きみ / 私の犬)、kukor / ekasi kor makiri(私の / おじいさんの小刀)の太字で示した語が「概念形」です。具体的に、どういう表現に関与しているものであるかは・・・また後日、ね。アイヌ語の特異性がまたしてもまざまざと感じられる要素です。
 これは本当にエライもんですよ。絶対にそれぞれの形は眺めてるだけで暗記できる自信はない。今のところは文の中に組み込んであったら文や文法規則と共に併せて覚えるということ以上に身につけるための努力はしない予定だけど、例文の中の一単語として用いられたことのないものでも、CDエクスプレスは練習問題を読み解いたりそれに答えたりするための語彙として登場させるからなぁ・・・。昔はCDエクスプレスの練習問題、頑張って解いてたんですけど、最近は飛ばすことが多くなってきました。パッと見てサッと答えられなければそれは、真に理解できていない、見に染みていない証拠だと思ってるんで、とりあえず先々と進んでいくことが常態化してます。
 あ、ちなみに和訳は後日また改めて。以下の文章群もすべて同じく。

チュテティ・イム・アシュタ・イ・ブクル
I. Qyteti im është i bukur.

モトラ・イメ・アシュタ・ストゥデンテ・ナ・ウニヴェルスィテト
II. Motra ime është studente në universitet.

プリンダリト・エ・ミ・バノィナ・ナ・フシャト
III. Prindërit e mi banojnë në fshat.

ショク・ユト・アシュタ・メカニク
IV. Shoku yt është mekanik.

ナナ・ヨテ・アシュタ・ミェケ・エ・ミラ
V. Nëna jote është mjeke e mirë.

ヴァレザル・エ・トゥ・シュコィナ・プナ・マ・カンバ
VI. Vëllezër e tu shkojnë në punë më këmbë.

ビチクレタ・エ・ティィ・アシュタ・エ・レ
VII. Biçikleta e tij është e re.

アルブミ・イ・サィ・アシュタ・プロト・メ・フォトグラフィ
VIII. Albumi i saj është plot me fotografi.

ポプリ・ユナ・ルフトン・クンダル・シュテュピェス・ポリティケ
IX. Populli ynë lufton kundër shtypjes politike.

タ・ティラ・トリマ・リンディン・ララ
X. Të tillë trima lindin rrallë.

 それからアルバニア語です。
 ・・・って、なんだか微妙にすんなり読まさせてくれないこのフォントはなんだ!
 「Stonehenge」ってフォントなんです。上の「アイルランド語文法」で、アイルランド語を表記するための伝統的な字体として紹介されているのを見たのが、このフォントの出会いでした。この字体で書くと、たとえば「oíche mhaith(イー・ワー; =おやすみなさい)」は「oíce mait」となり、消えた「h」はそれぞれに先行する子音の上にドットとして書かれます(デジタルだと手間なくしてはċしか表現できない・・・。このċはマルタ語キーボードで打ちました。この言語で用いるċとġが古英語の表記に必要なので使ってます。マルタ語もやりたいけど入門書がねぇなぁ)。俺はこの字体がものすごく気に入って、あの本でアイルランド語の勉強をしているときは常に筆記に用いていました。ただ、上のd, i, r, sは本で示されていたものとは違う形になってます。また、アイルランド語ではj , k, q, v, w, x, y, zは用いられません(方言によるかもしれんが。少なくともコシュ・アーリゲ方言とコナマーラ方言では使わない)。本が買えた暁には件の字体が見られるページを一部撮影して載せようかな。
 さて、この課の存在意義は、学習者に「所有形容詞」を教えてくれることです。とりあえず最も目立っているものはそれなんですが・・・実はページの大半は形容詞の「男性形」「女性形」の形成の仕方とその他諸々についての解説に割かれています。だからこんなもん単語毎を例に述べられても頭入ってこないんだって・・・!文章中では、i bukur(美しい), e mirë(良い), e re(新しい), plot((me+対格)でいっぱいの), politike(政治的な)が形容詞です。「i」と「e」は「前置定冠詞」です。前者が男性名詞を、後者が女性名詞(いずれも主格単数)を修飾していることを示しています。これが付くものと付かないものの見分け方についても書かれています。

クルー・イーラ・パーシュタス
I. Kur yra paštas?

クルー・イーラ・テレフォナス
II. Kur yra telefonas?

クルー・イーラ・ストティス
III. Kur yra stotis?

イー・デーシネー. イー・カイーレー
IV. Į dešinę. Į kairę.

アントラメ・アウクシュテ
V. Antrame aukšte.

カイープ・マーン・ヌヴァジオーティ・イー・ストーティー
VI. Kaip man nuvažiuoti į stotį?

プラシャウー・カルベーティ・パマジュ
VII. Prašau kalbėti pamažu.

 で、3つ目はリトアニア語。
 ・・・って、このやたらと読み辛いフォントはなんだ!
 「Stonehenge」と同じくネットで拾ってきた「Feathergraphy Decoration」ってフォントです。いやこのフォントすごいんですよ。過度な装飾もすごいんですが、それ以上に、リトアニア語の字母をすべて問題なく綺麗に表示させることができる点が素晴らしすぎます。セリフ系のフォントでは大抵「ę」とか「į」はアウトなんですよ。
 上の「Stonehenge」とこれ併せて、タミル文字、シンハラ文字、デーヴァナーガリー、アルメニア文字のイケてるフォントを拾った後に、すっかり忘れてたラテン文字用のやつを探し始めて色々見つかったものの内の一部なんですよ・・・探す順番おかしいよなw 余談ですが、最近文字をデカいサイズで書く際に愛用していて、そして今回もアイヌ語の文章に使ったのは「Palatino Linotype」ってフォントです。古典ギリシャ語を一切の不具合なく表示させるために必要不可欠なフォントの内のひとつで、リトアニア語の特殊な字母などにもバッチリ。そもそも見た目もシャープでカッコイイし、すごく利用しやすいフォントです。これはデフォでOSに入ってるはずです。古典ギリシャ語を始めたのは3年くらい前なんで勿論このフォントの有用性についてはよく知っていたのですが、古典ギリシャ語以外にラテン文字を表記する際にも是非利用すべきものであると気づいたのはここ最近です。
 さて前2つと同じように内容に少し触れようかなと思うんですが、そもそもこれで文すべてじゃなかった気が。
 会話文なら、それを構成する個々の文はハイフンで導いて、全体がひとまとまりを成していることを俺は示すようにしています。これは見ての通り互いが互いに関係のある問答ではありません(一部それっぽいものもあるんだけど)。そんな文なのにむしろこんだけよく覚えてる自分を褒めたいくらいだ。とか言ってるのに同じようなつくりのアルバニア語文は覚えられたのかと自分に突っ込みたいところですが、あれもあれで文の登場順が違ってるような気がしてます。
 この課では「文法格」が登場します。I.からIII.までの、-asを語末に持つ名詞は「主格」で、dešinę, kairę, aukšte, stotįは・・・なんだっけ?w ちゃんと見てないからね、仕方ないね。「antrame aukšte」は「2階に」って意味だからaukšteは「処格」ってことは確かで、他はたぶん対格だったとは思うんだけど・・・。というか、印欧祖語に近いと言われる他の言語を参考にするまでもなく、ラテン語を知ってれば「なんとなく」で対格かなと思えるんだよね。
 「į」がかつてiの鼻母音を、「ę」がeの鼻母音を示していたことと、前置詞「į」が「...に」を意味することを念頭に置いて、ラテン語でこれらにあたるものは何かと考えると、「į」と同じ意味を持つ前置詞「in」と、「単数対格語尾「-m」」という鼻音を含む要素なんだよね。ラテン語の全名詞の単数対格形が-mで終わるわけではないけど、これを特徴にしている一分類があるのも確かで、たとえば「島に」(移動先の到達点として)は「in īnsulam(< īnsula; f.)」と言う。サンスクリットの単数対格指標のひとつが-म्(m)という語尾であることを考えると、リトアニア語の鼻母音は、元は「母音+m」という結合であったのではないかと俺は思う。
 まぁ、これで上の対格であると思われる名詞群が別の格として曲用されていたらアホ過ぎだけどw
 ところでこいつらそれぞれ主格がdešinės, kairės, aukštės, stotis(III.にある通り)なんだけど、それぞれ音が「デシネース」、「カイレース」、「アウクシュテース」、「ストティス」で、aukštės以外の前置詞「į」に導かれている方は、上に書いてある通り、「デーシネー」、「カイーレー」、「ストーティー」なんだよ。伸ばすところが格によって変わるんだよ・・・。アクセントの位置による問題だから、「デー」、「カイー」、「ストー」のそれぞれの部分は見た目は短母音のままなんだ。ちなみにこの伸びている部分はすべて上昇アクセントを有しています。主格形で長音である部分も同じくそのアクセントは上昇です。あ、stotisのアクセントは「stòtis」として示され語幹にあり、短アクセントです。
 ・・・どこが「本文だけ書き逃げ」なんだw
 何か述べないと気が済まないってわけなんだな。
 これだけでも大分疲れた・・・。「慣れないことすると・・・」と言うが、俺にとってこういう解説もまさしく「慣れないこと」にあたってるもんな~。

2012年6月4日月曜日

=「мой отец—учитель」 ~リトアニア語第3課

カイープ・ギーヴーオヤテ
Kaip gyvuojate?
お元気ですか。

 俺?俺は元気じゃないです(´・ω・`)

クラーセーィエ
第三課: KLASĖJE
教室で

 今回もひとつのまとまった会話文にはなっておらず、色んな表現の寄せ集めで構成されているので、全文書き出しは省きます。

プラシャウー・スカイティーティ
Prašau skaityti.
読んでください。

※skaitýti: 読む(不定形)

 というわけで、今回から本格的に動詞が登場します。この課に出てくるものはほぼ全てが不定詞で用いられています。

スカイティーキテ
Skaitykite!
読みなさい。

※skaitýkite: skaityti命令形2人称複数

 「命令形」が出てきましたね。「命令」はないんでしょうか?

プラシャウー・イシュヴェルースティ
Prašau išversti.
翻訳してください。

※išver̃sti: 翻訳する(不定形)

 「skaityti」、「išversti」と、-tiを語尾に持つ動詞が続きましたが、これは当然のことで、リトアニア語の不定詞は-tiを語尾に持つのが特徴です。第2課で書いたbūti、gyventiの語末も、勿論この特徴が表れたものです。

プラシャウー・ラシーティ
Prašau rašyti.
書いてください。

※rašýti: 書く(不定形)

 不定形末尾の-tiの直前にyを持つ動詞は、そこに必ずアクセント(下降アクセント)があるのでしょうか?少なくとも今までに見てきたものはみんなそうです。

プラシャウー・デーメシオ
Prašau dėmesio!
聞いてください。

※dė̃mesio < dėmesỹs(デーメスィース; m.) s.gen.: 注目、注意

 和訳だと「Écoutez bien!(エクテ・ビヤン」と書かれているかの如しですが、dėmesysは注釈の通り、「注目」という意味を持つ言葉なので、直訳だと「どうか注目(してください)」ですね。言わずもがな、「聞いてください」とは本に従ったものです。和訳通りの「聞く」という動詞を用いなかったのは、「教室に於いては」こう言う方が自然ってことなんでしょうか?
 ところで、主格・dėmesysと属格・dėmesioとでは、アクセントの位置に違いがありますね。地獄の扉が開く音がするぜ・・・。

プラシャウー・パカルトーティ
Prašau pakartoti.
繰り返してください。

※pakartóti: 繰り返す(不定形)

 -tiの直前に、これまでとは別の字母が来ましたね。X-ytiという不定形に於いてyがアクセントを持つというより、-tiの直前の母音がアクセントを持つのではないかと推測する方が適切みたいですね。išverstiに於ける-tiの直前の母音字はeですが、子音字であるrと二重母音を形成してますんでrに付いていてもおかしくない。

ダール・カルーター
Dár kar̃tą.
もう一度。

 これの表現について、単語毎の意味が記載されていないので、このまま覚えよってことなんでしょうね。
 字母「ą」は初めて登場しましたね。かつてはaの鼻母音を示していたものが、現代ではaの長音になっているというものです。ę、į、ųも同じ変遷を辿った字母です。なんで鼻母音は廃れちゃったんでしょうね。ある音がなくなったのなら、それを示していた字も共に廃止するとか他の字に置き換えればいいのに、なんの働きがあってこういうのって残存するんだろうね(英語の母音の表記とかね!)。このせいでįとy, ųとūで同じ音を共有するようになっちゃったんだから。ęとėは、カナで音写するとどちらも「エー」ですが、正確には前者は広いe、後者は狭いeです。ちなみにąとęはポーランド語にもあり、これらは鼻母音です。
 それにしてもまたもやの現象だが、「r+アクセント」の表記がヒドいことになってんなぁ・・・。
 「母音字+子音字」という結合でのアクセントは、母音に付く方は下降アクセント、子音に付く方は上昇アクセントと必ず決まっているのなら、ある「VC」という二重母音に於いて、Vの方に上昇アクセントを付記することによって直後のCのアクセントを示すってやり方をしても、無理はない・・・よな?カナによる読みは必ず付けるし、たとえば上の「kartą」なら、

 カルーター
 kãrtą

 と書くわけだから、「カールター」と誤読される可能性はなくなる。
 ただ、俺個人が自由に書いている場所限定であるとはいえ、勝手にそういうことをしていいものかどうか・・・。誰に責められるわけではなくとも、最終的に最も説得に心を砕く相手って、自分自身なんだよね。いわゆる葛藤ってやつか?この言葉人生で初めて使ったかも。
 ベトナム語キーボードを使ってアクセントを付けると頭で決めてそれを実践する前からこうなることはこれまでの経験上わかってたんだよ。アクセント付きの「jūs」がキレイに表示できる例を示したけど、このフォントあのサイズで偶然うまくいっただけであって、デカくしてフォントをPalatino Linotypeにしたら第2課で見た通りの有様だよ。
 文章の後に「※」で導かれる注釈で単語毎の意味をアクセントの位置と共に見る際に、字母に直接アクセント記号を乗せないで、「rに上昇アクセント」とか書こうかなとも思ったんだけど、いまだ自分を納得させられる方式を決めかねています。

ヴィスィ・カルトゥ
Visi kartu.
みんな一緒に。

※visì: みんな、kartù: 一緒に

 kartąは注釈がないのにkartuにはあるっていう。いや、kartąとkartuが同一の語である証拠が第3課のどこかにあるわけじゃないんですけど、・・・まぁ、十中八九同じ言葉でしょ。「dar」が「更に」、「kartą」が「一度」であると仮定できんこともないし、となると「kartu」は「一度」から類推して「一纏め」のような意味があるんじゃないかと。

タイー・ヴィスカス
Tai viskas.
それだけです。

※taĩ: それ、vìskas: すべて

 フランス語で言う「c'est tout(セ・トゥ)」に完全に対応する表現でしょうね。この「viskas」と上の「visi」は、それぞれの意味や語形上から察するに、互いに関係の深い言葉であることがわかります。
 これが成句であるとして、ならば文法的にあまり細かいことが気にされず用いられている可能性もありますが、「それが」+「すべて」という表現にbūtiが伴われていないことには説明がつきます。リトアニア語では、「...は...である」という表現に於いて、繁辞の省略が許されるのです。

マノ・テーヴァス・(イーラ・)モーキートヤス
Mano tėvas (yra) mokytojas.
私の父は教師です。

※màno: 私の、tė́vas: 父、mókytojas: 教師

 また、名詞と名詞の間をハイフン(よりも長い線、が正しいのかな?ダッシュ?)で繋ぐこともあります。昨日の「labai malonu susipažinti su Jumis=очень приятно с вами познакомиться」に続き、これもロシア語的です。となると想像がつくでしょうが、上記リトアニア語文と同じ構文、時制に於いては繁辞が不要であるという点も共通です。というより、ロシア語の場合はリトアニア語と違い、「繁辞がなくてもいい」のではなく、「使わないのが正しい」のです。たとえば上の「Mano tėvas...」をそっくりロシア語に訳すると、

mój oťéc učíťeľ / モーィ・アチェーツ・ウチーチャリ
Мой отец—учитель.

 となります。リトアニア語・būtiにあたるロシア語はбыть(býť / ビーチ)、そしてその直説法現在3人称単数はбудет(búďet / ブーヂャト)ですが、「мой отец будет учитель」とは決して言いません。

カス・ノーリ・スカイティーティ
Kas nori skaityti?
誰が読みたいですか。

※kàs: 誰(が)、nóri < norė́ti(ノレーティ)直説法現在3人称単数: 望む

 色んな言語で見てきましたからね、完全に注釈抜きで“「望む」を示す動詞と不定詞を組み合わせて「不定詞が表現する動作を行うことを欲する」という意味になる”と即座に理解できますね。
 さてでは最後に、本が言うところの動詞の3種の分類とやらを見てみましょう。

第一種
例: eĩti(エイーティ)=行く

s. / pl.
aš einù(エイヌ) / mes eĩname(エイーナメ)
tu einì(エイニ) / jūs eĩnate(エイーナテ)
jis eĩna(エイーナ) / jie eĩna(エイーナ)

 このように、単数が-u, -i, -a、複数が-ame, -ate, -aに終わるのが特徴です。「3人称単数と複数の活用は同じ」でしたね。また、3人称単数と複数すべてに於けるアクセントは、人称と数を示す部分には付かないそうです。1人称と2人称の単数の場合は、付いたり付かなかったりです。eitiの場合は上で見られるように、前者ですね。
 そしてこの第一種には「亜種」があります。ここで示した人称の指標に+αで・・・

第一種・亜種
例: ruõšti(ルオーシュティ)=準備する

s. / pl.
aš ruoš(ルオシウ) / mes ruõšiame(ルオーシェメ)
tu ruõši(ルオーシ) / jūs ruõšiate(ルオーシェテ)
jis ruõšia(ルオーシェ) / jie ruõšia(ルオーシェ)

 と、このように、動詞語幹と第一種の人称語尾の間に-i-が挿入されるのです。おそらくですが、第一種・亜種に属する動詞は、-tiの直前の子音になんらかの共通点があるのではないかと思っています。歯擦音、若しくはこれと同類の音とか、ね・・・。狭い前舌母音と相性の良い子音、とも言えます。

第二種
例: mylė́ti(ミーレーティ)=好む

s. / pl.
aš mýliu(ミーリウ) / mes mýlime(ミーリメ)
tu mýli(ミーリ) / јūs mýlite(ミーリテ)
jis mýli(ミーリ) / jie mýli(ミーリ)

 さてこちらは動詞語幹にプラスiです。また、すべての人称と数に於いて語幹にアクセントがあること、加えて、3人称の単数形がその複数形のみならず、2人称単数との間とでも同一の語形を持っていることが特徴ですね。
 mylėtiを見るに、-tiの直前に狭い前舌母音、即ち/i/か/e/かこれらの類音のある動詞が属するのかなと思ったんですが、そう単純なものではないっぽいですね。というのも・・・

第三種
例: skaitýti=読む

aš skait(スカイタウー) / mes skaĩtome(スカイートメ)
tu skait(スカイタイー) / jūs skaĩtote(スカイートテ)
jis skaĩto(スカイート) / jie skaĩto(スカイート)

 この第三種があるからなんですね。動詞語幹の直後に硬母音(ここではaとo)が続いているのが特徴で、第一種に似ていますね。
 と、いうわけで、動詞の活用が示された第3課ですが、本文にはnorėti > noriしか直説法現在形として活用されている動詞が出てこないっていう・・・スペースもったいねぇ。
 うーん、そろそろタミル語についてまた書きたいんだけどなあ・・・。これまでのリトアニア語以上に例文が場面を同一にしてひとまとまりの体を成しているわけじゃないから、複数のページに亘って相互に関連のない文章を暗記しておかないと書けないっていう・・・骨折れるよこれは。
 まあ、頑張ります。

 イキ・パスィマーティーモ
 Iki pasimatymo!

2012年6月3日日曜日

=「очень приятно с вами познакомиться」 ~リトアニア語第2課

ナーン・ナーレッキ・エンガユン・ポーガ・ヴェーンダーン
நான் நாளைக்கு எங்கேயும் போக​ வேண்டாம்.
明日どこにも行きたくないです(´;ω;`)

 なんかもう最近疲れてます。接客態度も日に日に悪くなっていっている始末。そりゃハラタツわいな・・・色々やらにゃならんことあって、その日の内になんとか終わらせようと頑張ってるところにおもくそ「神たるお客様が来ましたよ?」と言わんばかりに澄ましたツラでノコノコやってくる連中。
 俺は接客やるためにバイトやってんじゃねんだよ!
 接客業だけどさ!
 新人はゆとりど真ん中で信じられないくらい頭も覚えも悪くてむぁったく使えねーし無茶苦茶なシフトがなんのフォローもなしに組まれることが多くなってきて俺は黙って従事、問題起きないようにこれ以上細かくならないよ~ってくらい心砕いて相方の行動を確認して・・・ほぼ常にそいつの傍らにいるハメになるから自分の仕事ができねーんだよ!
 なんで俺時給780円のバイトでこんな苦労してんの?
 家から50mもないコンビニでは23時から朝7時までボケーッとしてるだけで時給970円ってなんなの?
 割引で買物する特権がなかったら勝手にヤメてるとこだ。
 それにしてもゆとり世代の頭の悪さはすごいな!実際接して初めてわかる。ネット越しだとネタとしてしか捉えられないけど、同じ人間とは思えないくらい視野が狭い。常識がわからない。自分で判断できない。返事もろくにできない。気は利かない。何度言っても同じ失敗をする。わからないならそう言えばいいのにひたすら黙る。お洒落だけは毎度バッチリキメてくる。極めつけに、多く入れると言ったから採用してもらえたのに半月に5回程度しか出勤してこないというオチ。口で言って解らないバカなんだから身体で覚えてもらうしかないのにこれじゃ身につくもんも身につかん。
 こいつがいる方が仕事はかどらないってなんなの?
 塵<ゴミ>め・・・。
 でも俺はまだ当分はやめられないんだな~・・・本も溜まってっしよ。
 ヘブライ語の本、チベット語の本、フィリピノ語の本・・・そんで新たに「アイルランド語文法 コシュ・アーリゲ方言」(ミホール・オシール 著)が来ちゃいましたよ。
 これはホント、少しパラパラっと目を通しただけでもその内容の濃さに目を見張ってしまう、正真正銘の語学書の名著ですよね。というかまず大抵の人はそのデカい見た目に気圧されることでしょう。大学いた頃、ある日新刊として棚に置かれていたこの本を手に取って、当然の如くその日の内に借りましたよ。
 日本に於ける高等な言語学の本って、俺は本当はこういうのが理想だと思う。すなわち、ある言語の語学書は、その言語を母語にしていて、尚且つ学術的に研究もしている人が著したものを、日本人が日本語に訳して出版するって方が絶対にイイんだよ。
 日本人が書くのを待ってたらいつになったら語学書が登場するんだかわからない言語が、かなり多くの人が話しているものであってもまだまだたくさんあるからね。大抵はインドの言語だけど。すごい局所的に話者が固まってるから国際的な需要がなく、注目もされにくく、日本での研究も進んでないんだろうとか、そんくらいは想像つくんだけどさ。
 俺が将来書けるようになれば一番いいんだけど・・・。
 本まだ残ってんのに(ついでにCDも)なんでまた新しいの頼んだのか?っていうとですねぇ、いつも通りの理由なんですけど、利用しているネット通販のサイトで品切れになったからなんですよ。
 特にこの本のデキの素晴らしさはよく知ってましたからね、もうソッコーで発注ですよ。
 で、実はもう1冊ございまして、明日4日に到着予定なんですが、「ハウサ語基礎文法」(塩田勝彦 著)ってのも頼んだんですよ。
 これは何故欲しがったかっていうと、単純に、どんな言語だかほっとんど知らないから。ja.wikipedia.orgとかでちょこちょこ情報は仕入れましたけどね。
 自分が知らないってだけで、みんなは既に知ってる、よく知ってるってものに出会うことは人生に於いてそう珍しいことでないと思いますが、「ハウサ語」は確実に「俺だけが疎い」ものじゃないはずです。でも語学書があったっていう。
 そりゃ興味引かれんでしょ!どういう言語なんだか、語学書があるならそれを通して詳しく知ってみたくなるってもんでしょ!
 ラテン文字とアラビア文字を正書法に持つ言語だそうです。この本ではたぶんどっちででも学べるようになってるんじゃないかな。両者の間の転写には複雑さはないし、どちらが本に於ける主たる正書法として据えられていてもまったく問題ないでしょう。始める前からそれだけは言えます。
 アラビア文字といえば、日本人の間でもある程度知名度のある言語の中ではもっとも「読めそうにない」印象が容易に持たれがちな言語だと思いますが、はっきり言って3日(それも根詰めずに)もあればスラスラ読めるようになれるし自由に書けるようになります。人によっては1日、いや半日くらいでしょうね。
 ・・・ところでさ、冒頭のタミル語のフォント、すげーかっこよくない?
 何が切欠だったんだか忘れたんだけど、「かっこいいタミル語フォントを探そう!」と思い立って、見つけたのがコレ。他にも吟味の上色々ダウソしたけどこれが一番お気に入り。
 このフォントを使ってタミル語で何か書きたいが為に、何も見ずに己の言葉で言えるもので且つなんらかの話題の導入になりそうな文章を書いた結果、バイトについての愚痴でこの記事が始まることになったわけです。
 また意見がまとまったら書こうと思っとるんですが、俺今、「カタカナ」で示す発音にとてつもない重要性を見出し初めていまして、そんなわけで、いつもはカタカナとラテン文字でタミル語文章の読み方は示しているのに、上ではカタカナしか併記しなかったんですよ。
 まぁちなみにってことで書いときますが、「nāṉ nāḷaikku eṅgēyum pōga vēṇḍām」です。単語毎に訳すると、「私は(人称代名詞主格)+明日に(名詞与格)+どこにも(副詞; எங்கே=どこ+உம்(um)、ēとuの間のய்(y)は緩衝音)+行く(動詞不定形)+欲さない」。
 最後の「வேண்டாம்」は「வேண்டும்(vēṇḍum / ヴェーヌン)」の否定形で、これは「நான்=私は」に対応する活用ではなく、3人称単数形です。「வேண்டும்」を使う希望の表現に於いて、意味上の主語は、この文章で見られるように主格、或いは与格で表されます(「私は」ならその与格は「எனக்கு(eṉakku)」)。スペイン語の「gustar」を用いての「...が好き」という表現を引き合いに出すと、わかる人には感覚的に理解できるんじゃないでしょうか。尚、「不定詞+வேண்டும்」だと意味上の主語は主格でも与格でも表せますが、「名詞+வேண்டும்」だと与格でしか表せません。「不定詞+」の方も、本来は与格のみが使えた(=文法的に正しい)んじゃないかなと思ってるんですが、どーなんでしょ。文法的要素にウルサイ俺としては与格で「私は」を表したかったところなんですが、本だと主格で表してる例文の方が多かったので、それに倣ってみました。習ってる身として。
 とまあ、タミル語のプチ講座も終わったところで、今回書きたい言語のついての話、いきますか。

第二課: PRAŠAU SUSIPAŽINTI

 ハイ、リトアニア語なんですね。
 この第2課の本文もひとまとまりの会話文では構成されていないので、いきなり文章を個別に見ていこうかと思います。

プラシャウー・ススィパジーンティ
Prašau susipažinti.
ご紹介します。

※prašaũ: どうか、susipažìnti: 知り合う(不定詞)

 「どうか」と「知り合う」で「ご紹介します」になるの?と、俺も最初は思ったんですが、人同士を引き合わせてる場面であると考えればおかしくはないですね。というわけで「どうか知り合ってください」が直訳なんですが、そうなると「リトアニア語は不定詞を使って命令を表現するのか?」という疑問が次に湧いてきますよね。これに関しては2課には答えはありません。
 第1課にあった「どういたしまして=prašau」はそのアクセントが明示されていませんでしたが、それはこの「どうか=prašaũ」と用法が違っているからなんでしょうか?
 リトアニア語では、「母音+子音」の結合が「二重母音」を形成することがあります。一例としてsusipažintiの持つ-in-がそれにあたり、この結合ではiの方(=母音)にアクセントが付いていますが、nの方(=子音)にアクセントが付く場合もあります。この他の「母音+子音」で「二重母音を」構成している例、「母音+n」という二重母音でnの方にアクセントがある例も今回実際出てきますのでお楽しみに。

チェ・ポーナス
Čia ponas ...
こちらは...さんです。

※čià: ここ、põnas: ...氏

 本当は「...」には「Sato(佐藤)」が入ってるんですが、俺の感性に照らし合わせて場違いなので省きました。というか普通にリトアニア人の名前でいいだろーが。ホント理解できない、なんの脈絡もなく日本人名を入れてくる語学書。
 リトアニア語は大抵見た通り読める言語ですが、「ia」という二重母音は「エ」を示していることに注意。

アルー・ユース・エーサテ・ポーナス・リマス
Ar jūs esate ponas Rimas?
あなたはリマスさんですか?

※Ar̃: ...か?、ẽsate: あなたは...である(bū́ti直説法現在2人称複数)、Rìmas: リトアニア人姓

 リトアニア語にもあるんですねー、疑問指標の助詞。「も」ってのは勿論、アルバニア語(a)やバスク語(al)があっての言葉です。
 さて出てきましたね、「V+C」でCの方にアクセントが付いている例が。発音は「アルー」としましたが、これは本に沿った表現です。実際どういう音なんでしょうね。いまだにCD聴いてないっていう。言わずもがなですが、「arū」となるわけではなく、有音である「r」を発した時の音の響きを持続させるのです。まあ、机上の解釈を以ってしてみると、確かにその音は「アルー」しか表現しようがないですね。最初は「アルル」や「アッル」と書こうかなと思ったんですが、本に従ってりゃ楽なので今のところは深く考えずにおこうかなと。
 「V+C二重母音」のCに入るものには、これまでに出てきたn、rの他に、m、lがあります。まだなんかあったかも。これらの子音が母音に近しい性質を持っているがために、母音と結合した際に二重母音を形成するというわけです。サンスクリットにも、rとlに転写される短母音と長母音がありますんで、俺はすんなりと納得できました。

aputrasya ghaṃ śūnyam / アプトラスィヤ・グハン・シューニヤム
अपुत्रस्य गृहं शून्यम्॥
息子のいない人の家は空虚である。

※ग​の下についているもの、ラテン文字で「ṛ」と転写とされているが、れっきとした母音である。・・・らしいよ、サンスクリット語初等文法(J. Gonda 著)って本によると。
※अपुत्रस्य​: अपुत्र​-(aputra; adj.; =息子のいない)男性単数属格; 名詞として用いられている。
 cf. ラテン語・bonus(adj.; 良い)=良い=vir bonus、bona(bonus f.s.)=良い=femina bona、bonum(bonus n.s.)=良いもの=res(f.) bona
 गृहं: गृहम-(gṛha; n.; =家)単数主格; 本来の語末は-म्(m)で、直後のश​に影響を受けている
 शून्यम्: शून्य​-(śūnya; adj.; =空虚な)中性単数主格; गृहंを修飾している
※繋辞(フランス語・être、ドイツ語・sein)がないが、サンスクリットでは名詞の並置で文章が成り立つ。

 「esate」は、※で注釈を入れたように、その原形はbūtiです。ラテン語のesse(エッセ)系よりも古い形の名残がありますね。サンスクリットではभू(bhū / ブー)というので、さすが、誰が言ったか、「印欧祖語に最も近い形を残している言語」と指摘されるだけはあります。

būti直説法現在形

s. / pl.
àš esù(アシュ・エス) / mẽs ẽsame(メース・エーサメ)
esì(トゥ・エスィ) / jū̃s ẽsate(ユース・エーサテ)
jìs (jì) yrà(ィス(ィ)・イーラ) / jiẽ (jõs) yrà(ィエー(ヨース)・イーラ)

※ji、josは女性。

 と、活用します。3人称の単数と複数が同じ活用を見せていますが、これはこの動詞に限ったことではなく、リトアニア語の動詞での同人称に於ける活用は単複常に同形なんだそうです。
 ところで・・・ああ、jūsの表記が醜いことに・・・なんとかならんかなあ、これ・・・。

タイープ、アシュ・エス・アンターナス・リマス
- Taip, aš esu Antanas Rimas.
はい、私はアンタナス・リマスです。

※taĩp: はい、Antãnas: リトアニア男性名

ネ、アシュ・エス・ヴァライーティス、ペートラス・ヴァライーティス
- Ne, aš esu Valaitis, Petras Valaitis.
いいえ、私はヴァライティス、ペトラス・ヴァライティスです。

※nè: いいえ、Valaĩtis: リトアニア人姓、Pẽtras: リトアニア男性名

 まず、音写では「アンターナス」、「ペートラス」、「ヴァライーティス」なのに、和訳では長音がすべて短音になっていることについてですが、これは本がそうしているので、ってだけです。リトアニア語の字母としての長音が含まれて初めてカナによる音写に長音が反映されるんでしょうかね。
 次は本来は「Kaip gyvuojate?」なんですが、第1課にあったので省きます。あ、ちなみに第1課で「gyvuojate」と「iki pasimatymo=またね」の「pasimatymo」の原形をちゃんと確認してなかったと書いてましたが、それぞれ「gyvénti(ギーヴェンティ)」と「pasimãtymas(パスィマーティーマス)」です。「pasimatymo」は単数属格形でした。ついでに「gyvuoji」はやはりgyventiの2人称単数形でした。

ラバイー・マロヌ・ススィパジーンティ・ス・ユミス
Labai malonu susipažinti su Jumis.
あなたと知りあえてとても嬉しいです。

※malonù: 嬉しい(malonùs中性形)、sù(+具格): ...と、Jumìs: jūs具格; 元の形はjumìsで、語頭が大文字だと敬称形となる

 第1課で言及した、「prašauからprzepraszam」は、ただ互いの語感がたまたま似ているだけ(しかも意味が違う)というだけでしたが、ここにきてかなり強くスラヴ語的な印象をリトアニア語から受けました。・・・とは言っても、今回も、「リトアニア語にスラヴ諸語が与えた影響」をまともに語ることにできる人から見れば噴飯ものの感想なんでしょうけどね。
 そもそも「スラヴ語的」というか、「ロシア語的」です。
 というのもこの言い回し、「очень приятно с вами познакомиться(óčeň pr'ijátno s vám'i poznakóm'iťs'a / オーチャニ・プリヤートナ・ス・ヴァーミ・パズナコーミツァ)」にそっくりなんですよね。上の文と照らし合わせると、「labai=очень」、「malonu=приятно(両者共に中性形; < приятный(pr'ijátnyj / プリヤートニィ))」、「su Jumis=с вами」、「susipažinti=познакомиться(どちらも動詞不定形で、且つ再帰動詞である)」。ロシア語表現に於けるそれぞれの言葉の和訳も、上記「Labai...」のそれとまったく同じです(俺が学習に使っていた本が間違ってなければ)。

ユース・エーサテ・ストゥデンータス
- Jūs esate studentas?
あなたは学生ですか?

※studeñtas: (男子)学生

タイープ、アシュ・エス・ストゥデンータス
- Taip, aš esu studentas.
はい、私は学生です。

 「ar」はあってもなくてもいいみたいです。
 さてこの「studentas」に含まれている「-en-」が、「susipažinti」の「-in-」とは逆に、子音にアクセントが含まれている例です。
 「V+C」の二重母音は、母音の方にアクセントがあれば下降アクセント(見た目は短アクセント)、子音の方であれば上昇アクセントを有します。どちらも長音を示しますが、声の調子は真逆だということですね。
 尚、studentasは、本に書いてあったのでついでに覚えてしまいましたが、主格女性単数形で-tė(テー)、主格男性複数形で-tai、同女性複数形で-tės(テース)となります。なんかギリシャ語とラテン語が混ざった感じですね。
 さて今回はこんなところです。
 実は3課まで終わってるんですけど、目の痛さが限界なのでもうギブ。主に動詞ばかりで成り立っている本文を持つ課であり、当然の如く活用の分類も交えての解説があったのでまた一段と難しく&楽しく語ることのできる機会なんですが・・・焦らず、後日いっときましょうか。

 それではSudie!(スディエー)

2012年6月2日土曜日

ゆっくり実況動画に幸あれ!

SENEKALTさん、お疲れ様でした!

 ゲームのジャンルを選ばず対象にされ、プレイ動画編集の一スタイルとしてすっかり定着した「ゆっくり実況」。これを知る切欠となったのが、YouTubeで活動しているSENEKALTというユーザーによるブレスオブファイアIIIのゆっくり実況、「【BOF3】ドラゴンとゆっくりの世界解放実況プレイ」シリーズでした。
 俺が観始めた頃はまだ幼年期編だったなぁ~・・・。
 青年期編になってゆっくりが魔理沙ボイスになったときはすごい奇妙な感じがしたもんだ。青年期編の方が長かったから慣れたっちゃー慣れたんだけど、いまだにあのシリーズに於いては霊夢ボイスの方が好きだ。
 これに出会って以降、すっかり「ゆっくり実況」の虜となってしまった私ですが、いまだにこのシリーズが、「ゆっくり実況」というスタイルに於いて編集の仕方が最も理想的であります。
 何かにハマって、その何かに於いて自分にとって初めての存在となったものは、いつまでも印象が強いままであるという経験は数多の人に覚えのあることだと思いますが、俺にとっての「ドラゴンとゆっくりの世界解放実況プレイ」が正にそうです。
 他のゆっくり実況は・・・あれだね、下品な人が多いね。これが気に入らない。すーぐハァハァだのペロペロだのいうネタに走る。しかもゲームの内容そっちのけで。ゆっくり実況はゆっくり実況でも、こういうスタイルは大嫌い。「ドラゴンと~」シリーズのデキが最高峰であると既に己の中で確立されているだけに、不出来なものは比較対象としてすぐに気に入らないところがはっきり実感できる。
 SENEKALTも下品じゃなかったわけじゃないし、2chにニコ動にネットスラング、漫画やアニメを発祥とする昔から伝わるギャグや言い回しなど、決して万人向けに言葉を選んでいたとは言い辛いですが、喋り過ぎず実況者の私的なことを出しすぎず、真面目になりすぎずネタの織り込みは少なすぎずで、本当に丁寧なつくりをしてました。特に、実況以外にも、セリフにも基本的にすべて声を当てていたのが最高に好印象。「ゆっくり実況」をキーワードに検索をすることは今でもよくやっていますが、最近はどうせSENEKALT以外は観ても仕方ないしと段々思うようになってきちゃったのでろくに観ずに「戻る」をクリックすることも多くてたくさんまともにチェックできているわけじゃないんですが、ここまでゆっくりアフレコの多い動画も珍しいんじゃないでしょうか?
 俺は特にね、動画のページをクリックして動画が始まったらそのままじーっとディスプレイを観てるなんてことがほぼ皆無で、家にいるときは常に言語の勉強をしてますんで基本的に目線はノートの上、画面はチラ見しながら楽しんでいるが故に、セリフにも声がついてると、それこそアニメをながら見してるようなものなんで、非常に有難いんですよね。声色の違いもまた面白さを生み出す糧になりますし。
 ブレスIIIは俺もクリアしました。基本的にRPGは1周してハイオシマイなんで覚えてないこと、知らないことも結構ありましたねー。特にブレスシリーズの特徴である「釣り」はウマいヘタ以前に、IIIのものは面白くなかったんで(IVのは好き)、バラムンディとか全然知りませんでしたね。ミリア戦での活躍マジパネェっす。ラバビ育成とかも知らなかったなー。バーサーカーとマジックマスターはどっちも倒してないかも・・・。つーかミリア戦で叩きだした4kダメージはおろか、俺の最高は2kにも届いてなかった気がするんだよな。終盤は強敵との戦闘ではとりあえずカイザーって感じで、戦略もへったくれも、自分なりの戦法の探求もせずで。そう、俺、パワーも取った覚えないんですよ。中学生時分の俺がどう考えてもあんな場所にノーヒントで辿り着けたとは思えない。友達のひとりがやってて興味を持って買ったゲームだったんだけど、そいつに攻略法とか訊いてた覚えもないしなー。
 そう、これやった頃は中学生でした。これまでの人生の内で最も絵を頻繁に描いていた時期のひとつなので、リュウとニーナを描くことには一時ハマってましたね~。今にして思うと、何故モモ・ガーランド・レイを描かなかったのか・・・すごい描くのに楽しそうな造形をしてるんだなって、今更ながら気づいた。ニーナは服装がエロかったから描くのが好きだったんだと思う。中学生ですから。ちゅーかIからVまで、服装、装飾、全体的な雰囲気はそれぞれで互いに相当異なりますが、どのニーナもどことなく「エロい」んですよねぇ(Vのニーナに対して抱く印象としてはすごい後ろめたい気分がするけども・・・)。だが、勿論、それがいい!リンプーには敵いませんが。ちなみに俺はIVのニーナが一番好きでしたが、このシリーズのせいで、正直もうニーナといえばIIIのニーナって思えるようになりましたヨ・・・。
 このSENEKALTというユーザーはモンハンのゆっくり実況もしています。というか彼の実況動画はそちらが元祖です。しかし俺はモンハンについて殆どよく知らないので、積極的には観ていません。いくつかは観ましたけどね。知らんゲームでも、この人の編集ならそれなりに楽しめるんじゃないかって。その通り、ゲーム知らなくても結構面白かったです。というか観てる内に色々と覚えてきちゃうんですよね。こっちも観てると、ブレスの方にアイルーネタが出てきても置いてけぼり食らわなくて済むというメリットもw
 さて、そのブレスIIIゆっくり実況も、遂に完結と相成りました。腰を直角90°に曲げて深々とお礼したいほどこれまで大いに楽しませて頂いたことに幸せを感じつつも、とても寂しくもあります。
 Part何番でか忘れましたが、「暇があったらブレスVも実況してみようかな」とおっしゃってたんで、ちょっと・・・いや、かなり期待して待ってます。と言ってもがっつく気はなくて、本当にやってくれたら嬉しいな、って感じです。俺はVはクリアしてません。というかアジーンに会ったところくらいで、その後リアルで色々あってやる機会が失われてしまいました。
 本当に好きな動画なので、Part 1から、もう何度も全体を観返してます。次全体を連続再生するときは最終回を加えてだな!ところで「BadEnd編」にオープニングデモが入ってましたが、作者曰く「忘れてたから今更ながら組み込んだ」とのことでしたが、俺は演出だと思ってました。いやホントに。最後の最後まで進んでストーリーのすべてが把握できた上で、物語の最初の最初を観ると、なんかグっとくるものがありましたから。
 今後は、「HappyEnd編」での予告めいた発言通り、「アンゼリカが実況したがっている」ということはモンハン実況が始まるんでしょう。俺は観るつもりがないので、しばしアクティブなSENEKALTさんとはお別れです。
 勿論彼のブレスIII実況動画の再生履歴はこれからも増え続けることでしょうが、ゆっくり実況動画で完結していないシリーズの追っかけは、本日以降、ニコニコ動画の「まったく成長しないFF6(作者: むんたん)」1本だけになります。
 SENEKALTが最高峰だと言いましたが、このFF6実況も大のお気に入り。「ドラゴンと~」とはゲームも違えば編集の手法もまったく異なり相当にアクの強いシリーズなのでSENEKALTの動画を観るときとは一切似通った雰囲気を感じることなく楽しめるのがミソ。ブレスIIIの方は、セリフにまで逐一声を当てる「アニメ的編集」もあってストーリーを存分に楽しめるように作られていますが、FF6の方はいわゆる「縛りプレイ」が根底にある実況動画なので、どちらも「傑作」とはいえその毛色から判断するに両者の間にある相違性は相当強いですが、こちらも傑作中の傑作だと思います。
 ゆっくり実況動画に未来永劫幸あれ!

2012年5月31日木曜日

ry)3日目: tanto sirpirka siri / cep asupa wa ae ro

Сайн байна уу?




ゑ?

 「サイン・バイノー」はモンゴル語の挨拶でした。グーグル先生はなんでも知ったはるわホント。それより俺はこれをどこで知った?
 俺が持ってるモンゴル語の本で?
 ありえねー。
 だっていまだに字が読めないもん(笑)。
 つーかこの綴りで「サイン・バイノー」なのか~。
 直訳すると「元気ですか?」だそうです。だから最後が「?」で締められているわけですね。こりゃ新鮮。
 「Laba diena!」のように「!」で終わらないからといって「こんにちは」ではないとは限らないと。
 言語、そしてそれを育む文化・伝統・風習は本当に面白い!
 さてそれではアイヌ語最終日、まずは5課!

第5課: tanto sirpirka siri

- numan to epitta apto as korka, tanto sirpirka siri!
- kupopke humi! ney ta ka sinotan kusu payean ro!
- tanto kunepki kusu, nisatta sinotan ro.
- nisatta mean wa upas as nankor, sirpopke hi ta kusinot rusuy.

 この課から暗記にも大分気合が必要になってきます。

ヌマン・ト・エピッタ・アㇷ゚ト・アㇱ・コㇿカ, タント・シㇼピㇼカ・シリ
numan to epitta apto as korka, tanto sirpirka siri!
昨日は一日中雨が降っていたけど、今日はいい天気だなあ!

 単語毎のうんちくを知らないと、ホント和訳した通りの語順で各単語の意味を確認していけばいいだけであることが多いので、よく語るに困ります。
 「as=立つ」について書いたときすっかり忘れてたんですが、「(雨や雪などが)降る」を表す「as」もあります。
 「korka」は「...だけど」ですが、文頭に立っている例は見たことがないので、これを以って話を始められるかどうかはわかりません。
 さて、こっからは今回の課の目玉です・・・「sirpirka」という言葉。
 「天気が良い」という意味です。他言語で「天候」についてのみ用いられる形容詞というのは見たことがなかったので、この言葉ひとつが登場することでアイヌ語の独特さがよりよく感じられました。
 ところで天候についての「形容詞」と言いましたが、これは便宜上のことで、アイヌ語には形容詞がありません。実は既にちらっとそう1日目に書いてました。
 「おいしい(第1課の「keraan」)、「暖かい」、「寒い」、「良い」、「裁縫が上手い」など、少なくとも今挙げたものはすべて「自動詞」です。
 日本語に訳せば形容詞でしかないんですが、これらが動詞であることで、日本語を含む他の言語と比較して「動詞としての形容詞」の運用には何か気をつけねばいけないことがこの先出てくるのでしょうか?たとえば時制が動詞の語形上区別される言語に於ける「形容詞」がこういったものであると、「形容詞に活用がある」などが考えられますね。
 ちなみに「pirka」の部分が一般のことの形容に用いる「良い」であって、「sir-」がついて「天気が~」という意味になります。
 次の「siri」は、これも実に独特な表現なのですが、「目で見えるものに対しての感嘆」を示します。この他、この課にはない「人伝に耳に入れたことに対する感嘆=hawe」、この後登場する「実感できる味や感触などに対する感嘆=humi」がそれぞれ別個の言葉で表現されます。アイヌ人の感性・・・計り知れないね。

クポㇷ゚ケ・フミ. ネィ・タ・カ・シノタン・クス・パイェアン・ロ
kupopke humi! ney ta ka sinotan kusu payean ro!
暖かいなあ!どこかに遊びに行こうよ。

 そしてまた出てきました、アイヌ語のおもしろさを語る際に外せないであろう表現。
 「気候が暖かい」と言う場合と、「人が暖かさを感じている」と言う場合には、互いに異なる言葉を用います。・・・とは言っても、核となる言葉は両表現で共通していて、後者を示す場合の単語の頭に「sir-」をつけるだけで前者の表現となります。知っている限りは、ですが。
 で、この「kupopke」は、人称接頭辞「ku-」が付いていることからわかるように、「私は暖かい=私は暖かさを感じている」という意味です。いちいちそう書くと日本語として不自然なので、こうやって時間をかけながらひとつの単語を解説する際以外の和訳には反映させられませんね。
 でも考えてみると、気温を感じる主体(=人)が発する言葉としての表現と、数値化されるなどして判明する客観的な事実は、その程度についての判断の根拠が違うので、それぞれ独立した言葉(文ではなく)で示すことができてもおかしくはありませんよね。ただ、実際どういう単語でそれらが表現されているのかというと、先述した通りなので覚えるのは容易ですが。
 そして「humi」で、「私」が実感している気温に対しての感嘆が表現されています。
 「ney」は「どこか」です。見た目としては、「hunak(どこ)」とは互いに完全に別個の言葉みたいですね。
「ta」は「...へ」ですが、これまでにこの和訳のできる言葉がいくつか登場しているものの、その使い分け方は判然としていません。
 「sapporo or un」で「札幌へ」、「hunak un」で「どこへ」、そして第6課に出てきますが、「pet or ta」で「川へ」、「atuy sam ta」で「海のそばへ」です。これだけだと使い分けの根拠はわからないですね~。「hunak un」以外は「un」ないしは「ta」の前に挿入されているものがあるってのが一応の共通点ではありますが。
 「ka」は、「どこか」、「何か」など、はっきりしないものに後置されます。さて、その必要性は如何ほど・・・?直訳だと、「ney ta」で十分「どこかへ」ですしね。・・・日本語として言う場合の「か」がアイヌ語の「ka」にあたっていると思えば、納得できんことも・・・こじつけですがw

タント・クネㇷ゚キ・クス, ニサッタ・シノタン・ロ
tanto kunepki kusu, nisatta sinotan ro.
今日私は仕事があるから、明日遊びましょう。

 和訳では「仕事がある」としましたが、厳密には「nepki=働く」です。

ニサッタ・メアン・ワ・ウパㇱ・アㇱ・ナンコㇿ, シㇼポㇷ゚ケ・ヒ・タ・クシノッ・ルスィ
nisatta mean wa upas as nankor, sirpopke hi ta kusinot rusuy.
明日は寒くなって雪が降るだろうから、暖かいときに遊びたいな。

 さて、「popke」の用法を解説する際に、「気候としての温度」と「人が実感する温度」の表現の違いは「sir-」の有無で表されると書きましたが、そうでないものもあります。
 上記文章内の「mean」がそれに該当します。文脈からして明らかではありますが、もうひとつおまけとして人称接頭辞がついてないことから判るように、こちらが気候に対する言葉で、人を主語にした場合は「merayke」と言います。「sir-」が付いていないことも、語形に違いがあるところも異色ですね。
 「nankor」は「...だろう」という意味ですが、いかなる文脈に於いても、確定的でないものや推測が元になっている表現に後置させることができるのかどうかはまだわかりません。peut-êtreにあたるんでしょうか?
 「hi」は「...のとき」で、この言葉を知ったとき、何故だか俺は「...のときに」を示す一語がアイヌ語ならあるんじゃないのと思ってしまいました。
 というわけで5課終わりです。「humi」、「popke」に代表される表現がこの課の目玉でしたが、次の第6課ではまた、日本語では一言では表現しきれない概念が単語として示される例が見られます。

第6課: cep asupa wa ae ro

- pet or ta rapas wa cep poronno cikoyki wa arkias ruwe ne.
- kani anak atuy sam kusan wa kuperay korka, sinep ka kukoyki eaykap.
- cep asupa wa ae ro!
- su kuhuraye kusu, cep ehuraypa wa etuypa yak pirka.

 この課の文章の完全な暗記はなっかなか適いませんでした。覚えたアイヌ語(アイヌ語に限らずですが)が、和訳を見て頭から引っ張り出せるかどうかを以って暗記が完了したかを判断しているのですが、何度もアイヌ語による本文や単語表を見直したりしてましたね~。

ペトッタ・ラパㇱ・ワ・チェㇷ゚・ポロンノ・チコィキ・ワ・アㇻキアㇱ・ルウェ・ネ
pet or ta rapas wa cep poronno cikoyki wa arkias ruwe ne.
私たちは川へ下りて、魚をたくさん捕ってきたんだ。

 俺がいちいち言うことじゃないんでしょうけど、「登別」の元の言葉である「nupurpet」の「-pet」は上記文章頭の「pet」であり、「nupurpet」とは「色の濃い川」という意味です。
 「rap」は「ran」の単数形で、「上から下へ下りる」という動作を表します。動詞ひとつで、この話者の家が川よりも上方に位置していることがわかりますね。便利だ。日本語でも同じように「川へ下りて」とは言うでしょうが、大抵「行って」の方が口にされているんじゃないでしょうか?
 「poronno」、これも1日目にちらっと出しましたが、「たくさん」という意味で、アイヌ語としての品詞として分類するなら何になるんでしょうか・・・。
 実は、「属性的な形容詞の用法」が学習中にまだ出てきていません。まあ、「述語としての形容詞の用法」もまだだけどね。だから形容詞はないんだって!いや便宜上そう言わないと話進め辛くてしょうがないんだって!・・・たとえば「大きな川」といった表現がいまだに見られないのです。
 これは・・・あれだよ・・・そういうことを言うにあたって色々と気をつけないといけないことがあるフラグですよ・・・きっと。
 ちなみに「大きい」は「poro」と言います。札幌の「ポロ」ですね。「poronno」は、その意味と語形から考えるに、この「poro」からできている気がします。また、「apunno(おだやかに)」と同じ語尾を持っていることが気になります。品詞の分類がこの語尾によって為されているのでしょうか?また、「uturano(一緒に)」も「-no」で終わっていることもこれらの語との関係の有無が気になるところです。
 さて次に、「cikoyki wa arkias」で「私たちは捕ってきた」という、日本語そのままの言い回しです。即ち、「arki(< ek pl.)」は「来る」という意味で、文脈から判断してその動作が過去のものであると判断して、「来た」を示します。
 英語でもなんでも、ある程度和訳したことのある人ならわかるでしょうが、日本語で動作の完了に「きた」を付随させる場合、元の言語には「来る」を意味する動詞がどこにも見当たらないことの方が多いと思います。
 たとえば「Il a amené beaucoup de fleurs dans notre maison.(イラ・アムネ・ボクー・ド・フルール・ダン・ノートル・メゾン)=彼はたくさんの花を私たちの家へ持ってきた」という文章の中には「venir(ヴニール)=来る」という言葉は見当たりません。まぁ、和訳の仕方にもよる問題ではありますが。
 これまで日本語的表現をよく含んでいるところをアイヌ語の中に見出してきましたが、また更に日本語的な言い回しの発見と相なったわけですね。
 ただ、逐語訳的に見ていけば「捕って」+「来た」そのままなんですが、アイヌ語的表現法を突き詰めていった場合、この「ek」が、和訳すると「...してきた」となる表現に於いていつでも「ek」が使われているとは限らないでしょう。たとえば、もしかすると、ある動作が「今より極近い時に完了した」ことを強調するために、その動作を示す動詞に「ek」が後置されるのかもしれませんし。この課の最初の文章が示す内容が、この話者が話した時点からどれくらい前に完了したことなのかが判れば、もう少し解釈の掘り下げに寄与すると思うんですが。

カニ・アナㇰ・アトゥィ・サㇺ・タ・クサン・ワ・クペラィ・コㇿカ, シネㇷ゚・カ・クコィキ・エアィカㇷ゚
kani anak atuy sam ta kusan wa kuperay korka,
sinep ka kukoyki eaykap.
私は海のそばへ下りて釣りをしたんだけど、1匹も捕れなかった。

 さてこれも既に別の課を振り返ったときに出した言葉ですが、「kani」は「私」です。注意すべきなのは、あくまでも「私」であって、「私は」ではないことです。「kani anak」と言わないと「私は」にならないようです。これまで一切出てきていなかった人称代名詞ですが、今回登場したのは、「きみは魚が釣れたけど私は釣れなかった」という対比を強調するためでしょうね。動詞の活用でその語形上主語が明らかである場合など、人称代名詞を明示する必要がない他の言語でも見られる用法です。
 たとえば、「アルバニア語学習成果」で登場した、

ド・タ・プショィ
- Do të pushoj. Po ti?
(私は)休むよ。きみは

ウナ・ド・タ・シュコィ・ナ・テアタル
- Unë do të shkoj në teatër.
私は劇場に行くつもりだ。

 といった表現など。そういえばバスク語も動詞から主語が判断できる言語ですが、人称代名詞は大抵の例文中で使われていましたね。それが「バスク語的」なんでしょうか。
 さて、日本語では一語で言い表せない動詞、「san(pl.: sap)」の登場です。やっぱり文化、風習、言語の育まれた土地の特色など、言語を形成する要素というのは実に興味深いですね~。
 この自動詞は「山から海へ下りる」という意味で、敢えて類似の言葉を日本語から探すなら、京都で言う「下(さが)る=南へ行く」が適当ですかね。ところで俺は京都市民ですが、京都のことについてのみならず地理全般にとんと疎いので、道案内で「なんとかかんとかを下って~」などと言ったことはありません。電車での方々への行き方なんかも、バイト先の退職した上司(横浜出身)の方が詳しかったくらいです。
 この動詞は、この話者の家が山にあることを示していると解釈していいんでしょうか?今更ですが、この会話をしているのは兄弟です。ということは、「川がある位置より高い所から下の川へ行って魚を獲った」方(=弟)も勿論同じ家に住んでいるはずです。彼の動作を「san」で示さなかったのは、表現の豊かさと語彙の増加を図るためだと思いますが、一方で、クセなのか考え過ぎなのか、「san」は別に彼らの家が山の中にあるわけではなく、兄(sanと言った方)は「最初は山で遊んでいて、そこから釣りをしに海の方へ行った」と解釈することもできなくはないでしょうか?
 アイヌ人って、山に住んでる人が多かったりするんですかね?ちなみにCDエクスプレス アイヌ語で舞台となっているのは現代であり、更にアイヌ人の生活風景をより例文に反映させて描写するために一昔前に設定されているとのことなんで、たとえば井戸から水を汲み上げる場面が登場するそうですよ(まえがきより)。楽しみだ。
 「peray」は「(...を)釣る」でなく、「釣りをする」という「自動詞」です。つまり、「魚を釣った」と言えないってことですね。他動詞化する自動詞とかって、あるんでしょうか?
 「sinep」は文章中のみならず、単語表でも「1匹」と訳されています。つまり、フランス語などでは「un homme(アノム)=1人の男」と「un poisson(アン・プワソン)=1匹の魚」と、対象がなんであれ数詞は同一ですが、アイヌ語では「1人」と「1匹」は別個の言葉で表されるということでしょうね。しかもこの「1匹」、もしかしたら「魚」のみに用いられる可能性もありますね。おそろしいことです・・・。
 日本語の複雑さが語られる際、その助数詞の豊富さが諸要素に混ぜてよく言及されますが、日本人でも常に正しく使えている人は稀だってくらいですしね、生粋の日本人で日本語を母語にしてるなら他の言語-たとえば中国語、ベトナム語など-の多数の助数詞も抵抗なく受け入れて暗記に励むことができるでしょうってわけにはいかないのが実情です・・・。受容の下地だけなら、ある程度の年齢に達している人であれば十分でしょうが。
 さてこの「sinep」には「ka」がついています。後に「eaykap」があるので混乱してしまったのですが、この「ka」は「sinep」を修飾している、ということでいいんですよね。
 5課の「ney ta ka=どこかへ」という表現で見たように、「ka」は不確かなものに後置される言葉でもありますが、否定詞「somo」や、第3課で初出の「eaykap」の直前に付けられていた、否定を意味する語に先行するものとしての「ka」もあります。ここでも考え過ぎなんでしょうが、「sinep」の直後の「ka」は、「sinep ka kukoyki eaykap」の「eaykap」からは離れているので、修飾の対象はおそらく「sinep」ですが、えーっと、厳密な解釈の仕方は・・・。「1(匹)」って不確かなのか?まぁ、他の言語で数詞の1が「不定」冠詞としても用いられていることを考えれば、そういう発想に納得がいかんこともないんだが・・・。

チェㇷ゚・アスパ・ワ・アエ・ロ
cep asupa wa ae ro!
魚を煮て食べようよ。

 「cep poronno」が出た後で今更なんですけど、名詞の複数形はないんでしょうか?
 「supa」は「suwe」の複数形で、アイヌ語の動詞複数形の多くは「-pa」で終わるそうです。そのワリにはこれまでに出てきた例は多くありませんが、まぁこれから頻出するんじゃないでしょうか。語彙の効果的な習得をさせることを意図して文を構成するなら、不規則に複数形が形成されるものの方が、学習の最初に出すものとしては適当でしょう。「...である」や、「持つ」が色んな言語の学習書で最初の方に登場していて、且つそれらの活用が不規則である場合は、その汎用性の高さのみならず、早めに習得してもらうことを著者は考えているはずです。たとえばアルバニア語、バスク語の本はドンピシャでそういった構成です。特にバスク語では、活用と共に覚える必要のある動詞は、未だにコピュラ・izanと「持つ」にあたる「ukan」、それから「行く」にあたる「joan」、「来る」にあたる「etorri」しか出てきていません(最後2つは分詞としてしかブログで出したことなし)。分詞として使う動詞はすごく豊富ですが・・・。これだけでもバスク語の特異性が窺えるというものです。まぁ、編集にもよるんでしょうけどね。
 「rap(< ran)」などのように、複数形で「-p」を語尾に持つものは「移動を示す自動詞」に限るそうです。少ないので暗記せよと一覧表で示されてました。

ス・クフライェ・クス, チェㇷ゚・エフラィパ・ワ・エトゥィパ・ワ・ヤㇰ・ピㇼカ
su kuhuraye kusu, cep ehuraypa wa etuypa yak pirka.
私は鍋を洗うから、きみは魚を洗って切ってくれ。

 ありゃー、そういやこの文章では人称代名詞を用いての主語の強調がありませんね。安易に知った気になるのは危険ですね。当たり前ですが。
 「su」が「鍋」で、その発生はなんとなく「suwe(supa pl.)」と関係がある気がします。というか、いずれかが同語源の派生語であるなら、suweがそれにあたると考える方が自然でしょうね。
 さて、「鍋を洗う動作」が「huraye」で、「魚を洗う動作」が同じ動詞の複数形・「huraypa」で示されています。
 これも既に書いたことですが、他動詞で表す複数回の動作は「複数形」として用います。動詞が複数形になる際の条件としては、これまでの全言語の学習を通して初めて見たものです。
 ただちょっと気になるんですが、「鍋をゴシゴシと手を何度も往復させて洗う」動作は単数形を以っての表現で適当なんでしょうかね。「魚は何匹もいるので・・・」と説明されているんですが、となると対象が複数である場合に動詞の複数形が使われるということになりますが、「動作を何度も繰り返す」から「huraye」は「huraypa」となっていると付け足されているということは、動詞が複数形になる条件は「対象が複数である場合」だけではないということを意味する筈です。
 うーん。「何匹もいるので」でとまってれば「su kuhuraye」という表現に100%納得がいったんですけどね。或いは俺が日本語を曲解しているとか。難しいな。アイヌ語じゃなくて日本語が。
 「tuypa」は「tuye」複数形で、ここで注目すべきは文法的なことでなく、弟が魚を正しく洗って切ることができることでしょう。俺にゃムリです。やったことないからですが。「切る」と言われているだけであって、「さばく」は含んでいないんでしょうかね。
 「yak pirka」で「...してくれ」という成句です。単語毎に見ると、yakは「...すると」、pirkaは既述の通り、「良い」です。つまり直訳は「...するとよい」になりますね。なので、和訳では命令を示しているのに、アイヌ語文章の方では動詞が命令形(と敢えて言います)として使用されていないわけです。
 そして5課、6課の終了なわけです。
 アア・・・頭疲労困憊。
 タミル語で新しく覚えたこととかも書きたいんだけど、今日明日じゃムリかな・・・。

2012年5月30日水曜日

=「(語感が)przepraszam」 ~リトアニア語第1課 / ry)アイヌ語学習成果-2日目: somo karpa wa / uturano payean ro

Labas vakaras!




ゑ?

 リトアニア語タイプに備えて、自由に書ける言葉を覚えることにしました。
 チェコ語キーボードを使おうと思ってたんですが、「ū」が出せないんですね~実は。この字以外はカンペキなんですが。
 というわけで、リトアニア語キーボードを用意しました。まぁ、使い辛いですけどね。俺は字母をタイプした後に記号を後付けする方式の方が性に合ってるんですよ。このキーボードの場合は、F1のある列の真下、数字の列を利用して

ą /aː/|č /ʧ/|ę /ɛː/|ė /eː/|į /iː/|š /ʃ/|ų /uː/|ū /uː/|ž /ʒ/

 が打てます。
 まぁ、背に腹は代えられんってことで。慣れていくっきゃないですね。
 新しい言語をタイプする際、練習に利用するのは専らWikipediaですね。且つ、タイプしたい言語で書かれたWikipediaの、「Wikipedia」の記事を模写することが多いです。チェコ語キーボードでは文字が不足していることに気づけたのは、lt.wikipedia.orgのトップページにある新着記事をタイプしていたときですが。
 今のところの使い辛さとは別に、このキーボードにはひとつ困ったことがございまして、何故か「!」が出せないんですね~どゆこと?リトアニア語をタイプする際は、本の内容を暗記してここに書き出すときも、「!」抜きで綴っていくことになるのかなと思ったのですが、後述するように、ここでのリトアニア語文はキーボードを切り替えてのタイプが必須となるので、「!」も、他のキーボードに頼って打つことにします。
 さて、リトアニア語のタイピングに備えて、ってのは、他でもない、ここに書くときのためです。
 ネット上のリトアニア語文章と、リトアニア語入門内の文章とでは、書法に違いがあります。
 リトアニア語には、高低アクセントがあります。そう、チベット語とかベトナム語とかにあるあれみたいなやつのことです。「声調」とは書いてなかったので、性質が同じものなのかはわかりませんが。付属CDもまだ聴いてませんし。
 lt.wikipedia.orgの文章を見るに、普通は字として明示しないもののようですね。
 たとえば、「jūs(ユース; =あなた s.n.)」という言葉があります。これにつくアクセントは「上昇アクセント」で、「 ̃」で表すことができます。
 しかし、これに限らず、リトアニア語のあらゆるアクセント記号は、リトアニア語キーボードでは打てません。
 となると、己のタイプに於いて単語毎のアクセントを示したければ、リトアニア語キーボードのみの使用では事足りません。
 どうするかと考えて、すぐ思いついたのが、ベトナム語キーボードを利用する方法。
 古典ギリシャ語に、「ἀδελφή(アデルペー; =姉妹)」という言葉があります。これの双数主格形は「ἀδελφά」であり、音は「アデルパー」の如くです。この言葉や、その数・格を知らなければ、語末のαが長音か短音かが判らないので、初見では正しく読めません。ギリシャ語キーボードではマクロンも打てますが、「ἀδελφᾱ」とは絶対に書くべきではありません。
 古典ギリシャ語では、η(ē)とω(ō)は常に長音(現代ギリシャ語ではそれぞれ/i/と/o/、短音)で、他の母音・α(a), ε(e), ι(i), υ(y; フランス語のu、ドイツ語のü、現代ギリシャ語では/i/、位置によって/f/または/v/)は、その位置や、格の語尾として用いられている場合はその格がなんであるかによって長いか短いかわかることもありますが、そうでないことも往々にしてあります。
 たとえばπίπτω(ピープトー; =(私は)倒れる; 直説法能動態現在1人称単数)のιは長いですが、綴りからはわかりません。しかし、マクロンを付けてπῑπτωと書くと、アクセント記号が付けられません。アクセントと、単語語頭に付く気息記号(ἀδελφήの語頭ἀの上についているもの)の明示は古典ギリシャ語での必須要素なので、マクロンの優先は有り得ません。
 ギリシャ語キーボード単体を使っては、アクセント記号と気息記号をマクロンと重ねて書く方法はありません。
 しかし、ベトナム語キーボードを併せて使ってみると、「ἀδελφᾱ́」という具合に、大分不恰好ですが、一応、マクロンともうひとつの共存が適います。
 リトアニア語の「u」と「ū」は、「c」と「k」-同じ音を示すが別個の字-のように、互いに異なる字母であり、この2つともがリトアニア語字母総数の増加に貢献しています。「jūs」のアクセントを示すつもりで「jũs」と打ってしまえば、これは「jūs」とは異なる言葉を書いたことになります(ちなみに実在しているのかどうかは知らない)。
 となると、「jū̃s」と書かなければならない。こちらは「ἀδελφά」に比べると、非の打ちどころがないキレイな表示が実現できていますね。
 ・・・と、まあ、一応ベトナム語キーボードの有用性を語ってみたところで、非常に残念な点についての言及もせねばなりません。
 かなり前、ベトナム語のことを記事にしていた頃書いたことなんですが、何故かベトナム語キーボードでタイプすると、たとえば「ĩ」と表示されるべきものが「 ĩ」となってしまったりします。
 jū̃sがキレイに表示できると言いましたが、実際にはūのように上部或いは下部に記号を持つ母音にアクセント記号を付けるとき、或いは子音にアクセント記号を付けるときのみ利用価値があるのです。とはいえ、これらを実現させるために利用できるものは今のところ俺が知るかぎりベトナム語キーボードだけなので、これが非常に役に立つということに変わりはありませんが(たぶん、ネット上のどこかにはアクセント付きで文字を紹介しているサイトがあると思うのでコピペって方法も・・・もちろんあったところでやるわけない)。
 結局、アクセント記号を振る大半のケースに於いて、Lexilogosのオンラインキーボードに手助けしてもらったり、他のキーボードでアクサン・テギュやグラーヴを付ける必要があります。
 言わずもがな、キーボードを切り替えながらのタイプは非常に面倒臭いので、できるならアクセント記号は振りたくありません。更に、アクセント記号を示さないことが一般的であるなら、まとまったリトアニア語文には付けないのが正規の書法であると言えるでしょうし、個人的には正規のものであるかもしれないそちらを尊重したいと思います。
 ただ、一旦全文を書いた後、文章を一本ずつ見ていく段、解説の際に改めて単語にアクセント記号を付記することには抵抗感は湧かないでしょうし、「解説」に形を変えた学習成果の確認を行うならば、アクセントについてであろうがなんであろうが、知識のすべてを駆使して様々に言及できる方が学習に実りがあったと実感できるはずですね。
 では、当ブログ初のリトアニア語タイプといきましょう。
 第1課は挨拶の列挙だけで構成されているので、全文書き出しは行わず、最初から各文をバラバラに見ていこうかと思います。

ラーバス・リータス
Labas rytas!
おはよう。

※lãbas: 良い、rýtas: 朝(m.)

 さて、意味は読んで字の如く、単語毎の意味も同じくなので、アクセントについて話してみます。と言っても、まだまだ知らないことが多いんですけどね。ちゅーのも、いつもの如く「ちゃんと読んでない」からw
 リトアニア語のアクセントは「短アクセント」、「上昇アクセント」、「下降アクセント」の3種類があります。「labas」のアクセントは上昇アクセント、「rytas」は下降アクセントです。この課だけですべてのアクセントが出てきます。
 アクセントの性質は、短アクセントのある母音は短く、下降アクセントと上昇アクセントは長いです。「labas」の第1音節の長さはそれで説明がつくのですが、「rytas」のyが長いのは、そもそもリトアニア語のyが「長いi」を示すからでもあります。
 声のピッチの位置は、上昇アクセントのみ、低いところから始まり高いところへ、他の2つは、高いところから低いところへ声の調子を変えて発音します。短アクセントはその短さからすぐに声を低くして、長アクセントはある程度の長さを高ピッチで保った後、急にトーンを落とします。
 上昇アクセントは、波打つ見た目の「 ̃」から、中国語やベトナム語にあるような、同じ記号で示される声調を連想してしまいますが、低いところから高いところへ昇るというだけです。つまりは、「上昇アクセント」、なわけですね。
 そして下降アクセントの記号は、先の2つの言語の声調記号に倣うならば下降とは逆のものを示していそうなものですが、改めて考えてみてください。この記号、普通は上から下へ書かれますよね?まあその書き方から「下降」のアクセント記号として採用されたのかどうかは神の、いやリトアニア人のみぞ知るところですが、下から上で払うようには書きませんし、「下降」として表現されていても納得いくものではあります。特定の二重母音の下降アクセントとして表示される場合は、短アクセントと同じく「`」と書かれます。
 先に書いたように、リトアニア語では、字母として、短母音と長母音が厳密に区別されています。 長母音は短アクセントを持たないのかどうかが気になるところですが、それはまだわかりません。「長」母音に「短」アクセント・・・普通に考えたら矛盾が発生する組み合わせではあるが。

ラバ・ディエナ
Laba diena!
こんにちは。

※labà: dienaを修飾、dienà: 日(f.)

 さて、labasが文法性によって語形を変えてしまいました。
 今タイプして初めて気づいたんですが、labaと、これに修飾されているdienaのアクセントは、いずれも短アクセントであり、位置もウルティマにあるという共通点がありますね。
 格などによってアクセントの位置や性質が変わると読んだときは青ざめましたが、その変化にはある程度の規則性がありそうなので、救われた気分w

ラーバス・ヴァーカラス
Labas vakaras!
こんばんは。

※vãkaras: 夜(m.)

 そして記事冒頭の挨拶。残念ながら、アクセントを明示すること以外に言及すべき箇所がない。
 いや、まあ実は、この第1課から、名詞の単数属格と、曲用タイプが既に示されているんで、それも併記すべきなんですけどね・・・例によってちゃんと見てないから覚えてないっていう。

ラバーナクト
Labãnakt!
おやすみなさい。

 これは、laba-と-naktの合成語である気がするですが、どうなんでしょう。本には何も書いてありません。
 他の挨拶と同じく下部に再び「labanakt」と書いてもこの場合はムダである為、アクセントを付けてあります。
 次来ているのは「Labas!」という挨拶なのですが、見ての通り、形容詞「labas」を単体で使っているというものなので、特別なスペースは設けないことにします。ニュアンスも察しがつくと思いますが、砕けた感じがあるそうです。1日中使える挨拶です。

カイープ・ギーヴーオヤテ
Kaip gyvuojate?
お元気ですか?

※kaĩp: どのように、gyvúojate: 暮らす(2pl.)

 これも定番の挨拶ですね。また、2人称複数形が、フランス語などに於けるそれと同じように、あらたまった調子を表現しているのも定番の文法要素。ちなみに原形もちゃんと載ってるんですが・・・もう言わなくてもいいですヨネ、何故ここに書いてないかはw
 尚、次の挨拶は「kaip gyvúoji?」で、上のものより砕けた語調だそうです。動詞が示している人称・数は同じのようなんですが、2人称複数形に「丁寧形」と「くだけた形」があるってことなんでしょうか?つうか、「-ji」は形からしてもしかして2人称単数形なんじゃないのか?本曰くの「くだけた表現」なんて説明の仕方じゃ却って混乱するわ。

アーチウー, ゲライー. オー・カイープ・ユース
Ãčiū, geraĩ. Õ kaĩp jū̃s?
ありがとう、元気です。ところであなたはどうですか?

 これも読んで字の如くの意味なので、単語毎のスペースは取りません。jūsは上で出てますしね。一応言っておきますが、geraiは副詞です。

アーチウー・ラバイー
Ačiu labai.
どうもありがとう。

※labaĩ: とても

 直上とそのまた上の文章は質問と応答として対の表現になっていましたが、こちらはそれは2つとは無関係です、念のため。これは次と対になっています。

プラシャウー
Prašau.
どういたしまして。

 はい、「プラシャウー」なんですが、語末のuが長音である根拠は今のところ見つかっていません。よって、本が書いているまま覚えるしかないものです。そもそも、アクセント記号が明示されていませんでしたが、そういう言葉もあるということなんでしょうか?
 ところで、これを見て、ポーランド語のprzepraszam(プシェプラシャム)という言葉を思い出しました。意味は「ごめんなさい」なのでprašauに対応する言葉というわけではないのですが、バルト諸語はスラヴ諸語にとても大きな影響を受けているらしく、この言葉がその表れをある程度証明しているかどうかはまったく不確かであるものの、なんだか「なるほどなー」と思ってしまったのでした。

スディエー
Sudiẽ(u)!
さようなら。

 本にこう書いてあるんです。この言葉の語末のuは省略されがちってことなんですかね。

イキ・パスィマーティーモ
Ikì pasimãtymo!
またね。

※直訳は「会うまで」; cf. ロシア語・до свидания

 ikiの要求する格はなんなのか、pasimatymoの原形(主格)はなんなのか、どっちもまともに確認してなくてさっぱり覚えてません・・・。文法性は確か男性です。
 gyvuojate(gyvuoji)についてもそうですが、原形の確認はちゃんとするようにして、次からはちゃんと書けるようにしたいです・・・。
 さて、では、アイヌ語2日目、3課&4課!

- nisatta nupurpet or un earpa ya?
- somo karpa wa.
- hemanta kusu earpa somo ki?
- kusinki kusu somo karpa rusuy.
- hemanta eki wa esinki ya?
- numan kusinot kaspa ruwe ne wa.

 今回から書き方を少し変えます。
 まず、動詞に密着する人称接頭辞(或いは接尾辞)が母音同士の衝突を起こそうがどうしようが、「=」はもう挿入しません。人称接頭辞は動詞には必ず必要だし、「=」がいっぱいになる、そして俺はその見た目が実に気に入らん。もう知らん。
 そして固有名詞の語頭も大文字にしません(上記文章では「nupurpet=登別」が該当)。
 これらは俺がノートに書いている際の手法です。
 正書法が定まってないんだからどう書いてもいいじゃん!って考えの元にこう書いているわけじゃなくて、自然とペンではこういう風に綴るようになってしまっていたのです。
 あと、アイヌ語の主流表記のひとつ、カタカナを併記するようにします。なんとなくです。他の言語でも仮名で音写やってるから、もうそれだけでいいです。見た目の問題です。たぶん。知らん。

ニサッタ・ヌプㇽペッ・オルン・エアㇻパ・ヤ
nisatta nupurpet or un earpa ya?
明日きみは登別に行くのかい。

 ところで今回は兄弟の会話です。和訳はその間柄のものとしては不自然かもしれませんが、人称など、和訳に反映させられるものは可能な限りそうしたいので、こういう文体になっています。・・・と言うとそれなりに考えて書いてるように見えますが、たぶんに気まぐれです。1課、2課の和訳はかなりくだけて書いてましたしね。
 では語毎に見ていきましょう。「or un」と併せて書いて「...へ; ...に」を意味します。別の課で出てくるんですが、同じ意味で「or ta」(「オッタ」と読む)というものもあり、使い分けの根拠は今のところはわかっていません。
 他の言葉は既出なので割愛。nisattaは和訳の通り「明日」。

ソモ・カㇻパ・ワ
somo karpa wa.
行かないよ。

 否定の言葉が出てきました。この言葉で否定されているものは今のところ動詞だけなので、名詞に対しても使えるのかはわかりません。何故いちいちそんなことに考えが及ぶのかというと、名詞の否定がいまだに登場していないのと、大学で教わったインドネシア語がそういう言語だったもので。
 一例として「usey kuku rusuy na.」という文に於ける品詞の語順が日本語の如くそっくりそのまま「お湯(が)-(私は)飲み-たい-な」となっているアイヌ語ですが、否定副詞(便宜上敢えてこう言います)は日本語と違い、動詞の前に置かれます。
 「karpa」の「k-」は「ku」が縮んだもので、動詞の語頭が母音である場合にはこうして縮約が起きます。ただ、昨日の「ku=iwanke」という組み合わせが示していたように、動詞がiで始まっている場合は、縮約は起きません。

ヘマンタ・クス・エアパ・ソモ・キ
hemanta kusu earpa somo ki?
なんで行かないの。

 「なん-で」(何-故)という疑問の構成も日本語と同じですね。このように、kusuは「...の為」を意味し、その性質は所謂前置詞のようなものであるとも、接続詞であるとも解釈できます。「...故」にあたる「...の為」だけでなく、目的としている動作の後について「...をするために」を意味する際にも用いられます。
 さて、直前の文章で動詞の前に出てきた否定副詞ですが、今回は動詞の後に出てきています。こういう使い方もあります。また、somo kiは、否定を意味する言葉の前によく置かれる、「ka」に導かれることもあります。

 ヘマンタ・クス・エアㇻパ・カ・ソモ・キ
 hemanta kusu earpa ka somo ki?
 (意味同上)

 タネ・エイガ・クヌカ・クス・カパ・カ・エアィカㇷ゚・ナ
 tane eiga kunukar kusu karpa ka eaykap na.
 今私は映画を観には行けないんだよ。

 ※tane: 今、nukar: ...を見る、eaykap: できない

クシンキ・クス・ソモ・カパ・ルスィ
kusinki kusu somo karpa rusuy.
疲れてるから行きたくない。

 「ある動作+したい」という表現に於いて、否定詞は「行く」の方に寄っていることに注目。フランス語なんかだと、したい(vouloir)動作を示す不定詞にではなく、「したい」という言葉の方に寄りますし、日本語で言う「行きたくない」も、「行く」ことにではなく「したい」方に否定が用いられているように思います。

 ジュ・ヌ・ヴー・パ・ザレ・アヴェク・トゥワ・オ・レストラン・ア・ディネ
 Je ne veux pas aller avec toi au restaurant à diner.
 お前と夕食食べにレストランなんか行くか!

 ※veux: vouloir(ヴルワール)直説法現在1人称単数; vouloirは条件法(上記文章の場合はvoudrais)で用いないと、願望の否定を失礼なほど強く表現してしまいます。

ヘマンタ・エキ・ワ・エシンキ・ヤ
- hemanta eki wa esinki ya?
何をして疲れてるんだい。

ヌマン・クシノッ・カㇱパ・ルウェ・ネ・ワ
 - numan kusinot kaspa ruwe ne wa.
昨日遊びすぎたんだよ。

 「hemanta...」の方は解説なし。
 「明日」は「nisatta」、「昨日」は「numan」、そして「今日」は「tanto」と言います。tantoは、「tan=この」+「to=日」という構成であることに、本に言及はなくともそれぞれの語を別々に学んだことで気づくことができました。
 nisattaの-taはtoに関係している?nisatta、numan両方共n-で始まることには理由がある?と、小さなことですが興味は尽きませんね。そういやダイハツ工業の「タント」って車ありますよね。まぁ、まさかアイヌ語から取ってるわけじゃないでしょうが・・・「今日」という言葉には含みが多いですからね、なんか印象が良くなりました(別に悪かったわけじゃありませんがw)。
 「sinot=遊ぶ」は自動詞です。「サッカーをして遊ぶ」といった言い方はアイヌ語じゃできるんでしょうかね?uturano(一緒に) sinotas(我々は遊ぶ) kusu...うんたらって言い方になりそうな気が。
 「kaspa」は「...しすぎる」です。ホント、日本語の語順そのままに覚えられる易しい構文です・・・と一旦考えましたが、世界で話者数の多い言語の大抵が「...すぎる」を動詞に後置させてますよね、たぶん。
 また、昨日チラっと書いたんですが、アイヌ語の動詞には所謂「現在形」と「過去形」の区別が語形上ありません。時を表す副詞などで補うか、もしくは文脈で時制は判断します。
それでは次、第4課。

- hunak un ecipaye?
- eiga cinukar kusu sapporo or un payeas ruwe ne na.
uturano anukar kusu payean ro!
- tane karpa ka eaykap na. apunno paye yan.
- apunno oka yan.

 文章が一向に長くならねぇぞ?w ・・・しかしこの課はこれでいいのだ。気をつけて頭に留めておかねばならない新出の、とても重要な文法要素があるのに、更に文章が長かったら足踏み万年の羽目になるところだった。

フナクン・エチパイェ
hunak un ecipaye?
きみたちはどこへ行くの。

 「un」単体でも「...へ」を表すみたいですね。hunak単体ではその音は「フナㇰ」ですが、unと一緒に読まれて「フナク-ン」となります。ちなみに「CDエクスプレス アイヌ語」では、仮名同士の間は全角スペースほど空いており、「・」は介在していません。
 「eci」が文章中に初登場です。「e=きみ」にciがついて「eci=きみたち」、非常にわかりやすいですね。きみた「ち」と同じような音を表しているという点もまた、多少なりとも注目せざるを得ない。本当に偶然なんでしょうか?

エイガ・チヌカ・クス・サッポロ・オルン・パイェアㇱ・ルウェ・ネ・ナ
eiga cinukar kusu sapporo or un payeas ruwe ne na.
映画を観に札幌に行くんだよ。

ウトゥラノ・アヌカ・クス・パイェアン・ロ
 uturano anukar kusu payean ro!
一緒に観に行こう。

 ひとりの人間が発している文としてはこれまでで最長のものが出てきました。新出の文法要素もあり、解説にやや労力を伴いそうです。
 昨日も書きましたが、アイヌ語には本来ない言葉は、日本語からそのまま借用の上使われます。本だと単語全体が大文字+斜体で書かれることによりそれが示されています(eigaならEIGA)。勿論俺はそんなメンドっちいことしませんけどね。そもそも斜体だしw
 さて!出てきました、1人称複数形。そして4人称複数形。・・・「4」人称!?
 「cinukar」の「ci-」、「payeas」の「-as」が1人称複数で、「anukar」の「a-」、「payean」の「-an」が4人称複数を示しています。
 アイヌ語の文法用語として見ると、新たな次元を発見したかのような驚きを与えられますが、その実態は「包括」です。
 「私たち」と口にした者(たち)が、話かけている相手のことも包括して表現する際の人称が、「4人称」なのです。
 1人称複数にこうした区別のある言語は世界的に珍しいのか否かは知りませんが、学習経験のある言語の内では、ベトナム語がその1人称複数に於いてまったく同じ区別の表現を持っていました。「chúng tôi(チュング・トイ)」で「相手を含まない私たち」、「chúng ta(チュング・ター)」で「相手を含む私たち」です。「私たちは友達だ」などと言う際、慣れていない内は非常に気をつけないといけませんね・・・。
 すなわち、「cinukar」、「payeas」というのは、話しかけている人間を排他的に見た上での自分たち(言及していませんでしたがこの「私たち」は姉妹、話しかけている人は叔母)の動作を表していますが、この後で発せられる「anukar」、「payean」は、話しかけている人を自分たちが今行なっていること、これから行うことに加えたいという願望が表れた表現というわけです。まぁ、「eci(きみたち)だけで行きなさい」と、誘いは断られちゃいますが。
 さて、1人称、4人称の概念はここまでとして、次は人称接頭辞もしくは接尾辞の1人称ならびに4人称複数についてです(ところで4人称「複数」という言い方は間違いかもしれない。4人称はこれが意味することの性質上、表している人は必ず複数であるわけで。「単数」「複数」って付いてないと落ち着かないんだよ~)。
 1人称複数の動詞人称指標は、これが付く動詞が他動詞であるか自動詞であるかによって、接頭辞としても接尾辞としても用いられます。
 他動詞に付けば他の人称と同じく接頭辞になり、自動詞に付けば他の人称には例のない接尾辞としての利用が見られます。
 その語形は、既に既述している通り、他動詞に対しては「ci-」、自動詞に対しては「-as」、ついでに4人称は「a-」、「-an」です。
 ところで、動詞に接続される1人称複数指標についてまっとうなスペースを割いて説明したので間違いの訂正なんですが、昨日書いた「as=as」という表現、実は、1番目の方の「as(立つ)」にはれっきとした「複数形」があり、「roski」と言います。なので、「我々は立ち上がる」という意味で「アㇱ・アㇱ」という表現は有り得ず、正しくは「roskias」(4人称はroskian)となります。ちなみに、「立たせる」は「a」と言い、これが複数形になると、「as」の複数と同じく、「roski」です。
 ついでに、「rayke」の複数形は単数のraykeという語形をほぼそのままに保ったものではなく、かなり違うものでした。どんなものかは忘れましたが。私が言っていた、単数形から複数形をつくる際に「語末の2文字を変えるだけ」という動詞は、「理解する」です。これも日本語訳の方しか覚えてませんが。
 全部ひっくるめてごめんちゃーい(「まったく成長しないFF6」、遂に更新きたぞ!観たか!?)。
 最後に、「ro」は、「...しよう」を意味します。これまでに出てきた4人称動詞は必ずこれを伴っているので、これなしでも勧誘の表現は成立するのかどうかについては今のところ不明です。
 また、登場の順番が前後しますが、1番目の文章の最後が「na」で終わっているのは、次に勧誘を控えているからだと言うのがわかりますね。「観に行くんだよ、だから一緒に...」ということです。

タネ・カパ・カ・エアィカㇷ゚・ナ. アプンノ・パイェ・ヤン
tane karpa ka eaykap na. apunno paye yan.
今私は行けないんだよ。気をつけて行っておいで。

 すごい偶然ですが、この「tane=今」、アルバニア語の「今=tani」とそっくりです。みんな知ってると思いますが、系統がまったく異なる言語間で似た言葉を見つけるとテンション上がるんですよね。
 先にちょっと書きましたが、「eaykap」は「できない」という意味の動詞です。「できる」はまだ不明ですが、「eaykap」と似ているんでしょうか?また、これ単体で否定を示しているので、これに先立つ動詞の方に改めて否定副詞「somo」を用いる必要はないようです。
 昨日書きましたが、日本語で言う「さようなら」には、「apunno paye yan」という表現があたります。直訳すると「無事に / おだやか(=apunno)に行きなさい」です。

アプンノ・オカ・ヤン
apunno oka yan.
じゃあね。

 「apunno paye yan」が去る人に対するもので、こちらは残る人に対するものです。再び引き合いに出しますが、インドネシア語でも同じように言います。「去る人に対する」方だけ、「selamat jalan(スラマト・ジャラン)」と覚えてます。残る人に対してはselamat tingalだったかな~・・・これはなんか関係ない挨拶の気がするんだよな。
 さて、ここで注目すべきはそれよりも動詞の形なんですよ、実は。
 「paye」はeciに対するものなので複数形であるのはわかるんですが、何故叔母ひとりに対して「an」の複数形である「oka」が使われているんでしょうか?
 第2課の「ahup wa sini yan(アフㇷ゚・ワ・シニ・ヤン; =入って休みなさい)」の「ahup(ahun pl.)」もそうですが、自動詞の複数形の運用にあたっては、まだまだ知らなければいけないことがありそうです。
 さて、そんなこんなで第3課と第4課も見終わりました。ついでにリトアニア語の第1課も。原形をまともに覚えてないという不完全な振り返り方でしたけどね。
 明日は最終日。繰り返される言葉の登場頻度が段々少なくなってきて、更に多彩な言葉で文章が構成されていくようになります。アイヌ語ならではの表現も続々登場!

タント・シカ・シリ / チェㇷ゚・アスパ・ワ・アエ・ロ
次回、「tanto sirpirka siri / cep asupa wa ae ro」!
(ドーン)

 ところで「サイン・バイノー」という言葉を思い出したんですが、これ何語だろう?どこで覚えたんだろう。

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