2012年6月2日土曜日

ゆっくり実況動画に幸あれ!

SENEKALTさん、お疲れ様でした!

 ゲームのジャンルを選ばず対象にされ、プレイ動画編集の一スタイルとしてすっかり定着した「ゆっくり実況」。これを知る切欠となったのが、YouTubeで活動しているSENEKALTというユーザーによるブレスオブファイアIIIのゆっくり実況、「【BOF3】ドラゴンとゆっくりの世界解放実況プレイ」シリーズでした。
 俺が観始めた頃はまだ幼年期編だったなぁ~・・・。
 青年期編になってゆっくりが魔理沙ボイスになったときはすごい奇妙な感じがしたもんだ。青年期編の方が長かったから慣れたっちゃー慣れたんだけど、いまだにあのシリーズに於いては霊夢ボイスの方が好きだ。
 これに出会って以降、すっかり「ゆっくり実況」の虜となってしまった私ですが、いまだにこのシリーズが、「ゆっくり実況」というスタイルに於いて編集の仕方が最も理想的であります。
 何かにハマって、その何かに於いて自分にとって初めての存在となったものは、いつまでも印象が強いままであるという経験は数多の人に覚えのあることだと思いますが、俺にとっての「ドラゴンとゆっくりの世界解放実況プレイ」が正にそうです。
 他のゆっくり実況は・・・あれだね、下品な人が多いね。これが気に入らない。すーぐハァハァだのペロペロだのいうネタに走る。しかもゲームの内容そっちのけで。ゆっくり実況はゆっくり実況でも、こういうスタイルは大嫌い。「ドラゴンと~」シリーズのデキが最高峰であると既に己の中で確立されているだけに、不出来なものは比較対象としてすぐに気に入らないところがはっきり実感できる。
 SENEKALTも下品じゃなかったわけじゃないし、2chにニコ動にネットスラング、漫画やアニメを発祥とする昔から伝わるギャグや言い回しなど、決して万人向けに言葉を選んでいたとは言い辛いですが、喋り過ぎず実況者の私的なことを出しすぎず、真面目になりすぎずネタの織り込みは少なすぎずで、本当に丁寧なつくりをしてました。特に、実況以外にも、セリフにも基本的にすべて声を当てていたのが最高に好印象。「ゆっくり実況」をキーワードに検索をすることは今でもよくやっていますが、最近はどうせSENEKALT以外は観ても仕方ないしと段々思うようになってきちゃったのでろくに観ずに「戻る」をクリックすることも多くてたくさんまともにチェックできているわけじゃないんですが、ここまでゆっくりアフレコの多い動画も珍しいんじゃないでしょうか?
 俺は特にね、動画のページをクリックして動画が始まったらそのままじーっとディスプレイを観てるなんてことがほぼ皆無で、家にいるときは常に言語の勉強をしてますんで基本的に目線はノートの上、画面はチラ見しながら楽しんでいるが故に、セリフにも声がついてると、それこそアニメをながら見してるようなものなんで、非常に有難いんですよね。声色の違いもまた面白さを生み出す糧になりますし。
 ブレスIIIは俺もクリアしました。基本的にRPGは1周してハイオシマイなんで覚えてないこと、知らないことも結構ありましたねー。特にブレスシリーズの特徴である「釣り」はウマいヘタ以前に、IIIのものは面白くなかったんで(IVのは好き)、バラムンディとか全然知りませんでしたね。ミリア戦での活躍マジパネェっす。ラバビ育成とかも知らなかったなー。バーサーカーとマジックマスターはどっちも倒してないかも・・・。つーかミリア戦で叩きだした4kダメージはおろか、俺の最高は2kにも届いてなかった気がするんだよな。終盤は強敵との戦闘ではとりあえずカイザーって感じで、戦略もへったくれも、自分なりの戦法の探求もせずで。そう、俺、パワーも取った覚えないんですよ。中学生時分の俺がどう考えてもあんな場所にノーヒントで辿り着けたとは思えない。友達のひとりがやってて興味を持って買ったゲームだったんだけど、そいつに攻略法とか訊いてた覚えもないしなー。
 そう、これやった頃は中学生でした。これまでの人生の内で最も絵を頻繁に描いていた時期のひとつなので、リュウとニーナを描くことには一時ハマってましたね~。今にして思うと、何故モモ・ガーランド・レイを描かなかったのか・・・すごい描くのに楽しそうな造形をしてるんだなって、今更ながら気づいた。ニーナは服装がエロかったから描くのが好きだったんだと思う。中学生ですから。ちゅーかIからVまで、服装、装飾、全体的な雰囲気はそれぞれで互いに相当異なりますが、どのニーナもどことなく「エロい」んですよねぇ(Vのニーナに対して抱く印象としてはすごい後ろめたい気分がするけども・・・)。だが、勿論、それがいい!リンプーには敵いませんが。ちなみに俺はIVのニーナが一番好きでしたが、このシリーズのせいで、正直もうニーナといえばIIIのニーナって思えるようになりましたヨ・・・。
 このSENEKALTというユーザーはモンハンのゆっくり実況もしています。というか彼の実況動画はそちらが元祖です。しかし俺はモンハンについて殆どよく知らないので、積極的には観ていません。いくつかは観ましたけどね。知らんゲームでも、この人の編集ならそれなりに楽しめるんじゃないかって。その通り、ゲーム知らなくても結構面白かったです。というか観てる内に色々と覚えてきちゃうんですよね。こっちも観てると、ブレスの方にアイルーネタが出てきても置いてけぼり食らわなくて済むというメリットもw
 さて、そのブレスIIIゆっくり実況も、遂に完結と相成りました。腰を直角90°に曲げて深々とお礼したいほどこれまで大いに楽しませて頂いたことに幸せを感じつつも、とても寂しくもあります。
 Part何番でか忘れましたが、「暇があったらブレスVも実況してみようかな」とおっしゃってたんで、ちょっと・・・いや、かなり期待して待ってます。と言ってもがっつく気はなくて、本当にやってくれたら嬉しいな、って感じです。俺はVはクリアしてません。というかアジーンに会ったところくらいで、その後リアルで色々あってやる機会が失われてしまいました。
 本当に好きな動画なので、Part 1から、もう何度も全体を観返してます。次全体を連続再生するときは最終回を加えてだな!ところで「BadEnd編」にオープニングデモが入ってましたが、作者曰く「忘れてたから今更ながら組み込んだ」とのことでしたが、俺は演出だと思ってました。いやホントに。最後の最後まで進んでストーリーのすべてが把握できた上で、物語の最初の最初を観ると、なんかグっとくるものがありましたから。
 今後は、「HappyEnd編」での予告めいた発言通り、「アンゼリカが実況したがっている」ということはモンハン実況が始まるんでしょう。俺は観るつもりがないので、しばしアクティブなSENEKALTさんとはお別れです。
 勿論彼のブレスIII実況動画の再生履歴はこれからも増え続けることでしょうが、ゆっくり実況動画で完結していないシリーズの追っかけは、本日以降、ニコニコ動画の「まったく成長しないFF6(作者: むんたん)」1本だけになります。
 SENEKALTが最高峰だと言いましたが、このFF6実況も大のお気に入り。「ドラゴンと~」とはゲームも違えば編集の手法もまったく異なり相当にアクの強いシリーズなのでSENEKALTの動画を観るときとは一切似通った雰囲気を感じることなく楽しめるのがミソ。ブレスIIIの方は、セリフにまで逐一声を当てる「アニメ的編集」もあってストーリーを存分に楽しめるように作られていますが、FF6の方はいわゆる「縛りプレイ」が根底にある実況動画なので、どちらも「傑作」とはいえその毛色から判断するに両者の間にある相違性は相当強いですが、こちらも傑作中の傑作だと思います。
 ゆっくり実況動画に未来永劫幸あれ!

2012年5月31日木曜日

ry)3日目: tanto sirpirka siri / cep asupa wa ae ro

Сайн байна уу?




ゑ?

 「サイン・バイノー」はモンゴル語の挨拶でした。グーグル先生はなんでも知ったはるわホント。それより俺はこれをどこで知った?
 俺が持ってるモンゴル語の本で?
 ありえねー。
 だっていまだに字が読めないもん(笑)。
 つーかこの綴りで「サイン・バイノー」なのか~。
 直訳すると「元気ですか?」だそうです。だから最後が「?」で締められているわけですね。こりゃ新鮮。
 「Laba diena!」のように「!」で終わらないからといって「こんにちは」ではないとは限らないと。
 言語、そしてそれを育む文化・伝統・風習は本当に面白い!
 さてそれではアイヌ語最終日、まずは5課!

第5課: tanto sirpirka siri

- numan to epitta apto as korka, tanto sirpirka siri!
- kupopke humi! ney ta ka sinotan kusu payean ro!
- tanto kunepki kusu, nisatta sinotan ro.
- nisatta mean wa upas as nankor, sirpopke hi ta kusinot rusuy.

 この課から暗記にも大分気合が必要になってきます。

ヌマン・ト・エピッタ・アㇷ゚ト・アㇱ・コㇿカ, タント・シㇼピㇼカ・シリ
numan to epitta apto as korka, tanto sirpirka siri!
昨日は一日中雨が降っていたけど、今日はいい天気だなあ!

 単語毎のうんちくを知らないと、ホント和訳した通りの語順で各単語の意味を確認していけばいいだけであることが多いので、よく語るに困ります。
 「as=立つ」について書いたときすっかり忘れてたんですが、「(雨や雪などが)降る」を表す「as」もあります。
 「korka」は「...だけど」ですが、文頭に立っている例は見たことがないので、これを以って話を始められるかどうかはわかりません。
 さて、こっからは今回の課の目玉です・・・「sirpirka」という言葉。
 「天気が良い」という意味です。他言語で「天候」についてのみ用いられる形容詞というのは見たことがなかったので、この言葉ひとつが登場することでアイヌ語の独特さがよりよく感じられました。
 ところで天候についての「形容詞」と言いましたが、これは便宜上のことで、アイヌ語には形容詞がありません。実は既にちらっとそう1日目に書いてました。
 「おいしい(第1課の「keraan」)、「暖かい」、「寒い」、「良い」、「裁縫が上手い」など、少なくとも今挙げたものはすべて「自動詞」です。
 日本語に訳せば形容詞でしかないんですが、これらが動詞であることで、日本語を含む他の言語と比較して「動詞としての形容詞」の運用には何か気をつけねばいけないことがこの先出てくるのでしょうか?たとえば時制が動詞の語形上区別される言語に於ける「形容詞」がこういったものであると、「形容詞に活用がある」などが考えられますね。
 ちなみに「pirka」の部分が一般のことの形容に用いる「良い」であって、「sir-」がついて「天気が~」という意味になります。
 次の「siri」は、これも実に独特な表現なのですが、「目で見えるものに対しての感嘆」を示します。この他、この課にはない「人伝に耳に入れたことに対する感嘆=hawe」、この後登場する「実感できる味や感触などに対する感嘆=humi」がそれぞれ別個の言葉で表現されます。アイヌ人の感性・・・計り知れないね。

クポㇷ゚ケ・フミ. ネィ・タ・カ・シノタン・クス・パイェアン・ロ
kupopke humi! ney ta ka sinotan kusu payean ro!
暖かいなあ!どこかに遊びに行こうよ。

 そしてまた出てきました、アイヌ語のおもしろさを語る際に外せないであろう表現。
 「気候が暖かい」と言う場合と、「人が暖かさを感じている」と言う場合には、互いに異なる言葉を用います。・・・とは言っても、核となる言葉は両表現で共通していて、後者を示す場合の単語の頭に「sir-」をつけるだけで前者の表現となります。知っている限りは、ですが。
 で、この「kupopke」は、人称接頭辞「ku-」が付いていることからわかるように、「私は暖かい=私は暖かさを感じている」という意味です。いちいちそう書くと日本語として不自然なので、こうやって時間をかけながらひとつの単語を解説する際以外の和訳には反映させられませんね。
 でも考えてみると、気温を感じる主体(=人)が発する言葉としての表現と、数値化されるなどして判明する客観的な事実は、その程度についての判断の根拠が違うので、それぞれ独立した言葉(文ではなく)で示すことができてもおかしくはありませんよね。ただ、実際どういう単語でそれらが表現されているのかというと、先述した通りなので覚えるのは容易ですが。
 そして「humi」で、「私」が実感している気温に対しての感嘆が表現されています。
 「ney」は「どこか」です。見た目としては、「hunak(どこ)」とは互いに完全に別個の言葉みたいですね。
「ta」は「...へ」ですが、これまでにこの和訳のできる言葉がいくつか登場しているものの、その使い分け方は判然としていません。
 「sapporo or un」で「札幌へ」、「hunak un」で「どこへ」、そして第6課に出てきますが、「pet or ta」で「川へ」、「atuy sam ta」で「海のそばへ」です。これだけだと使い分けの根拠はわからないですね~。「hunak un」以外は「un」ないしは「ta」の前に挿入されているものがあるってのが一応の共通点ではありますが。
 「ka」は、「どこか」、「何か」など、はっきりしないものに後置されます。さて、その必要性は如何ほど・・・?直訳だと、「ney ta」で十分「どこかへ」ですしね。・・・日本語として言う場合の「か」がアイヌ語の「ka」にあたっていると思えば、納得できんことも・・・こじつけですがw

タント・クネㇷ゚キ・クス, ニサッタ・シノタン・ロ
tanto kunepki kusu, nisatta sinotan ro.
今日私は仕事があるから、明日遊びましょう。

 和訳では「仕事がある」としましたが、厳密には「nepki=働く」です。

ニサッタ・メアン・ワ・ウパㇱ・アㇱ・ナンコㇿ, シㇼポㇷ゚ケ・ヒ・タ・クシノッ・ルスィ
nisatta mean wa upas as nankor, sirpopke hi ta kusinot rusuy.
明日は寒くなって雪が降るだろうから、暖かいときに遊びたいな。

 さて、「popke」の用法を解説する際に、「気候としての温度」と「人が実感する温度」の表現の違いは「sir-」の有無で表されると書きましたが、そうでないものもあります。
 上記文章内の「mean」がそれに該当します。文脈からして明らかではありますが、もうひとつおまけとして人称接頭辞がついてないことから判るように、こちらが気候に対する言葉で、人を主語にした場合は「merayke」と言います。「sir-」が付いていないことも、語形に違いがあるところも異色ですね。
 「nankor」は「...だろう」という意味ですが、いかなる文脈に於いても、確定的でないものや推測が元になっている表現に後置させることができるのかどうかはまだわかりません。peut-êtreにあたるんでしょうか?
 「hi」は「...のとき」で、この言葉を知ったとき、何故だか俺は「...のときに」を示す一語がアイヌ語ならあるんじゃないのと思ってしまいました。
 というわけで5課終わりです。「humi」、「popke」に代表される表現がこの課の目玉でしたが、次の第6課ではまた、日本語では一言では表現しきれない概念が単語として示される例が見られます。

第6課: cep asupa wa ae ro

- pet or ta rapas wa cep poronno cikoyki wa arkias ruwe ne.
- kani anak atuy sam kusan wa kuperay korka, sinep ka kukoyki eaykap.
- cep asupa wa ae ro!
- su kuhuraye kusu, cep ehuraypa wa etuypa yak pirka.

 この課の文章の完全な暗記はなっかなか適いませんでした。覚えたアイヌ語(アイヌ語に限らずですが)が、和訳を見て頭から引っ張り出せるかどうかを以って暗記が完了したかを判断しているのですが、何度もアイヌ語による本文や単語表を見直したりしてましたね~。

ペトッタ・ラパㇱ・ワ・チェㇷ゚・ポロンノ・チコィキ・ワ・アㇻキアㇱ・ルウェ・ネ
pet or ta rapas wa cep poronno cikoyki wa arkias ruwe ne.
私たちは川へ下りて、魚をたくさん捕ってきたんだ。

 俺がいちいち言うことじゃないんでしょうけど、「登別」の元の言葉である「nupurpet」の「-pet」は上記文章頭の「pet」であり、「nupurpet」とは「色の濃い川」という意味です。
 「rap」は「ran」の単数形で、「上から下へ下りる」という動作を表します。動詞ひとつで、この話者の家が川よりも上方に位置していることがわかりますね。便利だ。日本語でも同じように「川へ下りて」とは言うでしょうが、大抵「行って」の方が口にされているんじゃないでしょうか?
 「poronno」、これも1日目にちらっと出しましたが、「たくさん」という意味で、アイヌ語としての品詞として分類するなら何になるんでしょうか・・・。
 実は、「属性的な形容詞の用法」が学習中にまだ出てきていません。まあ、「述語としての形容詞の用法」もまだだけどね。だから形容詞はないんだって!いや便宜上そう言わないと話進め辛くてしょうがないんだって!・・・たとえば「大きな川」といった表現がいまだに見られないのです。
 これは・・・あれだよ・・・そういうことを言うにあたって色々と気をつけないといけないことがあるフラグですよ・・・きっと。
 ちなみに「大きい」は「poro」と言います。札幌の「ポロ」ですね。「poronno」は、その意味と語形から考えるに、この「poro」からできている気がします。また、「apunno(おだやかに)」と同じ語尾を持っていることが気になります。品詞の分類がこの語尾によって為されているのでしょうか?また、「uturano(一緒に)」も「-no」で終わっていることもこれらの語との関係の有無が気になるところです。
 さて次に、「cikoyki wa arkias」で「私たちは捕ってきた」という、日本語そのままの言い回しです。即ち、「arki(< ek pl.)」は「来る」という意味で、文脈から判断してその動作が過去のものであると判断して、「来た」を示します。
 英語でもなんでも、ある程度和訳したことのある人ならわかるでしょうが、日本語で動作の完了に「きた」を付随させる場合、元の言語には「来る」を意味する動詞がどこにも見当たらないことの方が多いと思います。
 たとえば「Il a amené beaucoup de fleurs dans notre maison.(イラ・アムネ・ボクー・ド・フルール・ダン・ノートル・メゾン)=彼はたくさんの花を私たちの家へ持ってきた」という文章の中には「venir(ヴニール)=来る」という言葉は見当たりません。まぁ、和訳の仕方にもよる問題ではありますが。
 これまで日本語的表現をよく含んでいるところをアイヌ語の中に見出してきましたが、また更に日本語的な言い回しの発見と相なったわけですね。
 ただ、逐語訳的に見ていけば「捕って」+「来た」そのままなんですが、アイヌ語的表現法を突き詰めていった場合、この「ek」が、和訳すると「...してきた」となる表現に於いていつでも「ek」が使われているとは限らないでしょう。たとえば、もしかすると、ある動作が「今より極近い時に完了した」ことを強調するために、その動作を示す動詞に「ek」が後置されるのかもしれませんし。この課の最初の文章が示す内容が、この話者が話した時点からどれくらい前に完了したことなのかが判れば、もう少し解釈の掘り下げに寄与すると思うんですが。

カニ・アナㇰ・アトゥィ・サㇺ・タ・クサン・ワ・クペラィ・コㇿカ, シネㇷ゚・カ・クコィキ・エアィカㇷ゚
kani anak atuy sam ta kusan wa kuperay korka,
sinep ka kukoyki eaykap.
私は海のそばへ下りて釣りをしたんだけど、1匹も捕れなかった。

 さてこれも既に別の課を振り返ったときに出した言葉ですが、「kani」は「私」です。注意すべきなのは、あくまでも「私」であって、「私は」ではないことです。「kani anak」と言わないと「私は」にならないようです。これまで一切出てきていなかった人称代名詞ですが、今回登場したのは、「きみは魚が釣れたけど私は釣れなかった」という対比を強調するためでしょうね。動詞の活用でその語形上主語が明らかである場合など、人称代名詞を明示する必要がない他の言語でも見られる用法です。
 たとえば、「アルバニア語学習成果」で登場した、

ド・タ・プショィ
- Do të pushoj. Po ti?
(私は)休むよ。きみは

ウナ・ド・タ・シュコィ・ナ・テアタル
- Unë do të shkoj në teatër.
私は劇場に行くつもりだ。

 といった表現など。そういえばバスク語も動詞から主語が判断できる言語ですが、人称代名詞は大抵の例文中で使われていましたね。それが「バスク語的」なんでしょうか。
 さて、日本語では一語で言い表せない動詞、「san(pl.: sap)」の登場です。やっぱり文化、風習、言語の育まれた土地の特色など、言語を形成する要素というのは実に興味深いですね~。
 この自動詞は「山から海へ下りる」という意味で、敢えて類似の言葉を日本語から探すなら、京都で言う「下(さが)る=南へ行く」が適当ですかね。ところで俺は京都市民ですが、京都のことについてのみならず地理全般にとんと疎いので、道案内で「なんとかかんとかを下って~」などと言ったことはありません。電車での方々への行き方なんかも、バイト先の退職した上司(横浜出身)の方が詳しかったくらいです。
 この動詞は、この話者の家が山にあることを示していると解釈していいんでしょうか?今更ですが、この会話をしているのは兄弟です。ということは、「川がある位置より高い所から下の川へ行って魚を獲った」方(=弟)も勿論同じ家に住んでいるはずです。彼の動作を「san」で示さなかったのは、表現の豊かさと語彙の増加を図るためだと思いますが、一方で、クセなのか考え過ぎなのか、「san」は別に彼らの家が山の中にあるわけではなく、兄(sanと言った方)は「最初は山で遊んでいて、そこから釣りをしに海の方へ行った」と解釈することもできなくはないでしょうか?
 アイヌ人って、山に住んでる人が多かったりするんですかね?ちなみにCDエクスプレス アイヌ語で舞台となっているのは現代であり、更にアイヌ人の生活風景をより例文に反映させて描写するために一昔前に設定されているとのことなんで、たとえば井戸から水を汲み上げる場面が登場するそうですよ(まえがきより)。楽しみだ。
 「peray」は「(...を)釣る」でなく、「釣りをする」という「自動詞」です。つまり、「魚を釣った」と言えないってことですね。他動詞化する自動詞とかって、あるんでしょうか?
 「sinep」は文章中のみならず、単語表でも「1匹」と訳されています。つまり、フランス語などでは「un homme(アノム)=1人の男」と「un poisson(アン・プワソン)=1匹の魚」と、対象がなんであれ数詞は同一ですが、アイヌ語では「1人」と「1匹」は別個の言葉で表されるということでしょうね。しかもこの「1匹」、もしかしたら「魚」のみに用いられる可能性もありますね。おそろしいことです・・・。
 日本語の複雑さが語られる際、その助数詞の豊富さが諸要素に混ぜてよく言及されますが、日本人でも常に正しく使えている人は稀だってくらいですしね、生粋の日本人で日本語を母語にしてるなら他の言語-たとえば中国語、ベトナム語など-の多数の助数詞も抵抗なく受け入れて暗記に励むことができるでしょうってわけにはいかないのが実情です・・・。受容の下地だけなら、ある程度の年齢に達している人であれば十分でしょうが。
 さてこの「sinep」には「ka」がついています。後に「eaykap」があるので混乱してしまったのですが、この「ka」は「sinep」を修飾している、ということでいいんですよね。
 5課の「ney ta ka=どこかへ」という表現で見たように、「ka」は不確かなものに後置される言葉でもありますが、否定詞「somo」や、第3課で初出の「eaykap」の直前に付けられていた、否定を意味する語に先行するものとしての「ka」もあります。ここでも考え過ぎなんでしょうが、「sinep」の直後の「ka」は、「sinep ka kukoyki eaykap」の「eaykap」からは離れているので、修飾の対象はおそらく「sinep」ですが、えーっと、厳密な解釈の仕方は・・・。「1(匹)」って不確かなのか?まぁ、他の言語で数詞の1が「不定」冠詞としても用いられていることを考えれば、そういう発想に納得がいかんこともないんだが・・・。

チェㇷ゚・アスパ・ワ・アエ・ロ
cep asupa wa ae ro!
魚を煮て食べようよ。

 「cep poronno」が出た後で今更なんですけど、名詞の複数形はないんでしょうか?
 「supa」は「suwe」の複数形で、アイヌ語の動詞複数形の多くは「-pa」で終わるそうです。そのワリにはこれまでに出てきた例は多くありませんが、まぁこれから頻出するんじゃないでしょうか。語彙の効果的な習得をさせることを意図して文を構成するなら、不規則に複数形が形成されるものの方が、学習の最初に出すものとしては適当でしょう。「...である」や、「持つ」が色んな言語の学習書で最初の方に登場していて、且つそれらの活用が不規則である場合は、その汎用性の高さのみならず、早めに習得してもらうことを著者は考えているはずです。たとえばアルバニア語、バスク語の本はドンピシャでそういった構成です。特にバスク語では、活用と共に覚える必要のある動詞は、未だにコピュラ・izanと「持つ」にあたる「ukan」、それから「行く」にあたる「joan」、「来る」にあたる「etorri」しか出てきていません(最後2つは分詞としてしかブログで出したことなし)。分詞として使う動詞はすごく豊富ですが・・・。これだけでもバスク語の特異性が窺えるというものです。まぁ、編集にもよるんでしょうけどね。
 「rap(< ran)」などのように、複数形で「-p」を語尾に持つものは「移動を示す自動詞」に限るそうです。少ないので暗記せよと一覧表で示されてました。

ス・クフライェ・クス, チェㇷ゚・エフラィパ・ワ・エトゥィパ・ワ・ヤㇰ・ピㇼカ
su kuhuraye kusu, cep ehuraypa wa etuypa yak pirka.
私は鍋を洗うから、きみは魚を洗って切ってくれ。

 ありゃー、そういやこの文章では人称代名詞を用いての主語の強調がありませんね。安易に知った気になるのは危険ですね。当たり前ですが。
 「su」が「鍋」で、その発生はなんとなく「suwe(supa pl.)」と関係がある気がします。というか、いずれかが同語源の派生語であるなら、suweがそれにあたると考える方が自然でしょうね。
 さて、「鍋を洗う動作」が「huraye」で、「魚を洗う動作」が同じ動詞の複数形・「huraypa」で示されています。
 これも既に書いたことですが、他動詞で表す複数回の動作は「複数形」として用います。動詞が複数形になる際の条件としては、これまでの全言語の学習を通して初めて見たものです。
 ただちょっと気になるんですが、「鍋をゴシゴシと手を何度も往復させて洗う」動作は単数形を以っての表現で適当なんでしょうかね。「魚は何匹もいるので・・・」と説明されているんですが、となると対象が複数である場合に動詞の複数形が使われるということになりますが、「動作を何度も繰り返す」から「huraye」は「huraypa」となっていると付け足されているということは、動詞が複数形になる条件は「対象が複数である場合」だけではないということを意味する筈です。
 うーん。「何匹もいるので」でとまってれば「su kuhuraye」という表現に100%納得がいったんですけどね。或いは俺が日本語を曲解しているとか。難しいな。アイヌ語じゃなくて日本語が。
 「tuypa」は「tuye」複数形で、ここで注目すべきは文法的なことでなく、弟が魚を正しく洗って切ることができることでしょう。俺にゃムリです。やったことないからですが。「切る」と言われているだけであって、「さばく」は含んでいないんでしょうかね。
 「yak pirka」で「...してくれ」という成句です。単語毎に見ると、yakは「...すると」、pirkaは既述の通り、「良い」です。つまり直訳は「...するとよい」になりますね。なので、和訳では命令を示しているのに、アイヌ語文章の方では動詞が命令形(と敢えて言います)として使用されていないわけです。
 そして5課、6課の終了なわけです。
 アア・・・頭疲労困憊。
 タミル語で新しく覚えたこととかも書きたいんだけど、今日明日じゃムリかな・・・。

2012年5月30日水曜日

=「(語感が)przepraszam」 ~リトアニア語第1課 / ry)アイヌ語学習成果-2日目: somo karpa wa / uturano payean ro

Labas vakaras!




ゑ?

 リトアニア語タイプに備えて、自由に書ける言葉を覚えることにしました。
 チェコ語キーボードを使おうと思ってたんですが、「ū」が出せないんですね~実は。この字以外はカンペキなんですが。
 というわけで、リトアニア語キーボードを用意しました。まぁ、使い辛いですけどね。俺は字母をタイプした後に記号を後付けする方式の方が性に合ってるんですよ。このキーボードの場合は、F1のある列の真下、数字の列を利用して

ą /aː/|č /ʧ/|ę /ɛː/|ė /eː/|į /iː/|š /ʃ/|ų /uː/|ū /uː/|ž /ʒ/

 が打てます。
 まぁ、背に腹は代えられんってことで。慣れていくっきゃないですね。
 新しい言語をタイプする際、練習に利用するのは専らWikipediaですね。且つ、タイプしたい言語で書かれたWikipediaの、「Wikipedia」の記事を模写することが多いです。チェコ語キーボードでは文字が不足していることに気づけたのは、lt.wikipedia.orgのトップページにある新着記事をタイプしていたときですが。
 今のところの使い辛さとは別に、このキーボードにはひとつ困ったことがございまして、何故か「!」が出せないんですね~どゆこと?リトアニア語をタイプする際は、本の内容を暗記してここに書き出すときも、「!」抜きで綴っていくことになるのかなと思ったのですが、後述するように、ここでのリトアニア語文はキーボードを切り替えてのタイプが必須となるので、「!」も、他のキーボードに頼って打つことにします。
 さて、リトアニア語のタイピングに備えて、ってのは、他でもない、ここに書くときのためです。
 ネット上のリトアニア語文章と、リトアニア語入門内の文章とでは、書法に違いがあります。
 リトアニア語には、高低アクセントがあります。そう、チベット語とかベトナム語とかにあるあれみたいなやつのことです。「声調」とは書いてなかったので、性質が同じものなのかはわかりませんが。付属CDもまだ聴いてませんし。
 lt.wikipedia.orgの文章を見るに、普通は字として明示しないもののようですね。
 たとえば、「jūs(ユース; =あなた s.n.)」という言葉があります。これにつくアクセントは「上昇アクセント」で、「 ̃」で表すことができます。
 しかし、これに限らず、リトアニア語のあらゆるアクセント記号は、リトアニア語キーボードでは打てません。
 となると、己のタイプに於いて単語毎のアクセントを示したければ、リトアニア語キーボードのみの使用では事足りません。
 どうするかと考えて、すぐ思いついたのが、ベトナム語キーボードを利用する方法。
 古典ギリシャ語に、「ἀδελφή(アデルペー; =姉妹)」という言葉があります。これの双数主格形は「ἀδελφά」であり、音は「アデルパー」の如くです。この言葉や、その数・格を知らなければ、語末のαが長音か短音かが判らないので、初見では正しく読めません。ギリシャ語キーボードではマクロンも打てますが、「ἀδελφᾱ」とは絶対に書くべきではありません。
 古典ギリシャ語では、η(ē)とω(ō)は常に長音(現代ギリシャ語ではそれぞれ/i/と/o/、短音)で、他の母音・α(a), ε(e), ι(i), υ(y; フランス語のu、ドイツ語のü、現代ギリシャ語では/i/、位置によって/f/または/v/)は、その位置や、格の語尾として用いられている場合はその格がなんであるかによって長いか短いかわかることもありますが、そうでないことも往々にしてあります。
 たとえばπίπτω(ピープトー; =(私は)倒れる; 直説法能動態現在1人称単数)のιは長いですが、綴りからはわかりません。しかし、マクロンを付けてπῑπτωと書くと、アクセント記号が付けられません。アクセントと、単語語頭に付く気息記号(ἀδελφήの語頭ἀの上についているもの)の明示は古典ギリシャ語での必須要素なので、マクロンの優先は有り得ません。
 ギリシャ語キーボード単体を使っては、アクセント記号と気息記号をマクロンと重ねて書く方法はありません。
 しかし、ベトナム語キーボードを併せて使ってみると、「ἀδελφᾱ́」という具合に、大分不恰好ですが、一応、マクロンともうひとつの共存が適います。
 リトアニア語の「u」と「ū」は、「c」と「k」-同じ音を示すが別個の字-のように、互いに異なる字母であり、この2つともがリトアニア語字母総数の増加に貢献しています。「jūs」のアクセントを示すつもりで「jũs」と打ってしまえば、これは「jūs」とは異なる言葉を書いたことになります(ちなみに実在しているのかどうかは知らない)。
 となると、「jū̃s」と書かなければならない。こちらは「ἀδελφά」に比べると、非の打ちどころがないキレイな表示が実現できていますね。
 ・・・と、まあ、一応ベトナム語キーボードの有用性を語ってみたところで、非常に残念な点についての言及もせねばなりません。
 かなり前、ベトナム語のことを記事にしていた頃書いたことなんですが、何故かベトナム語キーボードでタイプすると、たとえば「ĩ」と表示されるべきものが「 ĩ」となってしまったりします。
 jū̃sがキレイに表示できると言いましたが、実際にはūのように上部或いは下部に記号を持つ母音にアクセント記号を付けるとき、或いは子音にアクセント記号を付けるときのみ利用価値があるのです。とはいえ、これらを実現させるために利用できるものは今のところ俺が知るかぎりベトナム語キーボードだけなので、これが非常に役に立つということに変わりはありませんが(たぶん、ネット上のどこかにはアクセント付きで文字を紹介しているサイトがあると思うのでコピペって方法も・・・もちろんあったところでやるわけない)。
 結局、アクセント記号を振る大半のケースに於いて、Lexilogosのオンラインキーボードに手助けしてもらったり、他のキーボードでアクサン・テギュやグラーヴを付ける必要があります。
 言わずもがな、キーボードを切り替えながらのタイプは非常に面倒臭いので、できるならアクセント記号は振りたくありません。更に、アクセント記号を示さないことが一般的であるなら、まとまったリトアニア語文には付けないのが正規の書法であると言えるでしょうし、個人的には正規のものであるかもしれないそちらを尊重したいと思います。
 ただ、一旦全文を書いた後、文章を一本ずつ見ていく段、解説の際に改めて単語にアクセント記号を付記することには抵抗感は湧かないでしょうし、「解説」に形を変えた学習成果の確認を行うならば、アクセントについてであろうがなんであろうが、知識のすべてを駆使して様々に言及できる方が学習に実りがあったと実感できるはずですね。
 では、当ブログ初のリトアニア語タイプといきましょう。
 第1課は挨拶の列挙だけで構成されているので、全文書き出しは行わず、最初から各文をバラバラに見ていこうかと思います。

ラーバス・リータス
Labas rytas!
おはよう。

※lãbas: 良い、rýtas: 朝(m.)

 さて、意味は読んで字の如く、単語毎の意味も同じくなので、アクセントについて話してみます。と言っても、まだまだ知らないことが多いんですけどね。ちゅーのも、いつもの如く「ちゃんと読んでない」からw
 リトアニア語のアクセントは「短アクセント」、「上昇アクセント」、「下降アクセント」の3種類があります。「labas」のアクセントは上昇アクセント、「rytas」は下降アクセントです。この課だけですべてのアクセントが出てきます。
 アクセントの性質は、短アクセントのある母音は短く、下降アクセントと上昇アクセントは長いです。「labas」の第1音節の長さはそれで説明がつくのですが、「rytas」のyが長いのは、そもそもリトアニア語のyが「長いi」を示すからでもあります。
 声のピッチの位置は、上昇アクセントのみ、低いところから始まり高いところへ、他の2つは、高いところから低いところへ声の調子を変えて発音します。短アクセントはその短さからすぐに声を低くして、長アクセントはある程度の長さを高ピッチで保った後、急にトーンを落とします。
 上昇アクセントは、波打つ見た目の「 ̃」から、中国語やベトナム語にあるような、同じ記号で示される声調を連想してしまいますが、低いところから高いところへ昇るというだけです。つまりは、「上昇アクセント」、なわけですね。
 そして下降アクセントの記号は、先の2つの言語の声調記号に倣うならば下降とは逆のものを示していそうなものですが、改めて考えてみてください。この記号、普通は上から下へ書かれますよね?まあその書き方から「下降」のアクセント記号として採用されたのかどうかは神の、いやリトアニア人のみぞ知るところですが、下から上で払うようには書きませんし、「下降」として表現されていても納得いくものではあります。特定の二重母音の下降アクセントとして表示される場合は、短アクセントと同じく「`」と書かれます。
 先に書いたように、リトアニア語では、字母として、短母音と長母音が厳密に区別されています。 長母音は短アクセントを持たないのかどうかが気になるところですが、それはまだわかりません。「長」母音に「短」アクセント・・・普通に考えたら矛盾が発生する組み合わせではあるが。

ラバ・ディエナ
Laba diena!
こんにちは。

※labà: dienaを修飾、dienà: 日(f.)

 さて、labasが文法性によって語形を変えてしまいました。
 今タイプして初めて気づいたんですが、labaと、これに修飾されているdienaのアクセントは、いずれも短アクセントであり、位置もウルティマにあるという共通点がありますね。
 格などによってアクセントの位置や性質が変わると読んだときは青ざめましたが、その変化にはある程度の規則性がありそうなので、救われた気分w

ラーバス・ヴァーカラス
Labas vakaras!
こんばんは。

※vãkaras: 夜(m.)

 そして記事冒頭の挨拶。残念ながら、アクセントを明示すること以外に言及すべき箇所がない。
 いや、まあ実は、この第1課から、名詞の単数属格と、曲用タイプが既に示されているんで、それも併記すべきなんですけどね・・・例によってちゃんと見てないから覚えてないっていう。

ラバーナクト
Labãnakt!
おやすみなさい。

 これは、laba-と-naktの合成語である気がするですが、どうなんでしょう。本には何も書いてありません。
 他の挨拶と同じく下部に再び「labanakt」と書いてもこの場合はムダである為、アクセントを付けてあります。
 次来ているのは「Labas!」という挨拶なのですが、見ての通り、形容詞「labas」を単体で使っているというものなので、特別なスペースは設けないことにします。ニュアンスも察しがつくと思いますが、砕けた感じがあるそうです。1日中使える挨拶です。

カイープ・ギーヴーオヤテ
Kaip gyvuojate?
お元気ですか?

※kaĩp: どのように、gyvúojate: 暮らす(2pl.)

 これも定番の挨拶ですね。また、2人称複数形が、フランス語などに於けるそれと同じように、あらたまった調子を表現しているのも定番の文法要素。ちなみに原形もちゃんと載ってるんですが・・・もう言わなくてもいいですヨネ、何故ここに書いてないかはw
 尚、次の挨拶は「kaip gyvúoji?」で、上のものより砕けた語調だそうです。動詞が示している人称・数は同じのようなんですが、2人称複数形に「丁寧形」と「くだけた形」があるってことなんでしょうか?つうか、「-ji」は形からしてもしかして2人称単数形なんじゃないのか?本曰くの「くだけた表現」なんて説明の仕方じゃ却って混乱するわ。

アーチウー, ゲライー. オー・カイープ・ユース
Ãčiū, geraĩ. Õ kaĩp jū̃s?
ありがとう、元気です。ところであなたはどうですか?

 これも読んで字の如くの意味なので、単語毎のスペースは取りません。jūsは上で出てますしね。一応言っておきますが、geraiは副詞です。

アーチウー・ラバイー
Ačiu labai.
どうもありがとう。

※labaĩ: とても

 直上とそのまた上の文章は質問と応答として対の表現になっていましたが、こちらはそれは2つとは無関係です、念のため。これは次と対になっています。

プラシャウー
Prašau.
どういたしまして。

 はい、「プラシャウー」なんですが、語末のuが長音である根拠は今のところ見つかっていません。よって、本が書いているまま覚えるしかないものです。そもそも、アクセント記号が明示されていませんでしたが、そういう言葉もあるということなんでしょうか?
 ところで、これを見て、ポーランド語のprzepraszam(プシェプラシャム)という言葉を思い出しました。意味は「ごめんなさい」なのでprašauに対応する言葉というわけではないのですが、バルト諸語はスラヴ諸語にとても大きな影響を受けているらしく、この言葉がその表れをある程度証明しているかどうかはまったく不確かであるものの、なんだか「なるほどなー」と思ってしまったのでした。

スディエー
Sudiẽ(u)!
さようなら。

 本にこう書いてあるんです。この言葉の語末のuは省略されがちってことなんですかね。

イキ・パスィマーティーモ
Ikì pasimãtymo!
またね。

※直訳は「会うまで」; cf. ロシア語・до свидания

 ikiの要求する格はなんなのか、pasimatymoの原形(主格)はなんなのか、どっちもまともに確認してなくてさっぱり覚えてません・・・。文法性は確か男性です。
 gyvuojate(gyvuoji)についてもそうですが、原形の確認はちゃんとするようにして、次からはちゃんと書けるようにしたいです・・・。
 さて、では、アイヌ語2日目、3課&4課!

- nisatta nupurpet or un earpa ya?
- somo karpa wa.
- hemanta kusu earpa somo ki?
- kusinki kusu somo karpa rusuy.
- hemanta eki wa esinki ya?
- numan kusinot kaspa ruwe ne wa.

 今回から書き方を少し変えます。
 まず、動詞に密着する人称接頭辞(或いは接尾辞)が母音同士の衝突を起こそうがどうしようが、「=」はもう挿入しません。人称接頭辞は動詞には必ず必要だし、「=」がいっぱいになる、そして俺はその見た目が実に気に入らん。もう知らん。
 そして固有名詞の語頭も大文字にしません(上記文章では「nupurpet=登別」が該当)。
 これらは俺がノートに書いている際の手法です。
 正書法が定まってないんだからどう書いてもいいじゃん!って考えの元にこう書いているわけじゃなくて、自然とペンではこういう風に綴るようになってしまっていたのです。
 あと、アイヌ語の主流表記のひとつ、カタカナを併記するようにします。なんとなくです。他の言語でも仮名で音写やってるから、もうそれだけでいいです。見た目の問題です。たぶん。知らん。

ニサッタ・ヌプㇽペッ・オルン・エアㇻパ・ヤ
nisatta nupurpet or un earpa ya?
明日きみは登別に行くのかい。

 ところで今回は兄弟の会話です。和訳はその間柄のものとしては不自然かもしれませんが、人称など、和訳に反映させられるものは可能な限りそうしたいので、こういう文体になっています。・・・と言うとそれなりに考えて書いてるように見えますが、たぶんに気まぐれです。1課、2課の和訳はかなりくだけて書いてましたしね。
 では語毎に見ていきましょう。「or un」と併せて書いて「...へ; ...に」を意味します。別の課で出てくるんですが、同じ意味で「or ta」(「オッタ」と読む)というものもあり、使い分けの根拠は今のところはわかっていません。
 他の言葉は既出なので割愛。nisattaは和訳の通り「明日」。

ソモ・カㇻパ・ワ
somo karpa wa.
行かないよ。

 否定の言葉が出てきました。この言葉で否定されているものは今のところ動詞だけなので、名詞に対しても使えるのかはわかりません。何故いちいちそんなことに考えが及ぶのかというと、名詞の否定がいまだに登場していないのと、大学で教わったインドネシア語がそういう言語だったもので。
 一例として「usey kuku rusuy na.」という文に於ける品詞の語順が日本語の如くそっくりそのまま「お湯(が)-(私は)飲み-たい-な」となっているアイヌ語ですが、否定副詞(便宜上敢えてこう言います)は日本語と違い、動詞の前に置かれます。
 「karpa」の「k-」は「ku」が縮んだもので、動詞の語頭が母音である場合にはこうして縮約が起きます。ただ、昨日の「ku=iwanke」という組み合わせが示していたように、動詞がiで始まっている場合は、縮約は起きません。

ヘマンタ・クス・エアパ・ソモ・キ
hemanta kusu earpa somo ki?
なんで行かないの。

 「なん-で」(何-故)という疑問の構成も日本語と同じですね。このように、kusuは「...の為」を意味し、その性質は所謂前置詞のようなものであるとも、接続詞であるとも解釈できます。「...故」にあたる「...の為」だけでなく、目的としている動作の後について「...をするために」を意味する際にも用いられます。
 さて、直前の文章で動詞の前に出てきた否定副詞ですが、今回は動詞の後に出てきています。こういう使い方もあります。また、somo kiは、否定を意味する言葉の前によく置かれる、「ka」に導かれることもあります。

 ヘマンタ・クス・エアㇻパ・カ・ソモ・キ
 hemanta kusu earpa ka somo ki?
 (意味同上)

 タネ・エイガ・クヌカ・クス・カパ・カ・エアィカㇷ゚・ナ
 tane eiga kunukar kusu karpa ka eaykap na.
 今私は映画を観には行けないんだよ。

 ※tane: 今、nukar: ...を見る、eaykap: できない

クシンキ・クス・ソモ・カパ・ルスィ
kusinki kusu somo karpa rusuy.
疲れてるから行きたくない。

 「ある動作+したい」という表現に於いて、否定詞は「行く」の方に寄っていることに注目。フランス語なんかだと、したい(vouloir)動作を示す不定詞にではなく、「したい」という言葉の方に寄りますし、日本語で言う「行きたくない」も、「行く」ことにではなく「したい」方に否定が用いられているように思います。

 ジュ・ヌ・ヴー・パ・ザレ・アヴェク・トゥワ・オ・レストラン・ア・ディネ
 Je ne veux pas aller avec toi au restaurant à diner.
 お前と夕食食べにレストランなんか行くか!

 ※veux: vouloir(ヴルワール)直説法現在1人称単数; vouloirは条件法(上記文章の場合はvoudrais)で用いないと、願望の否定を失礼なほど強く表現してしまいます。

ヘマンタ・エキ・ワ・エシンキ・ヤ
- hemanta eki wa esinki ya?
何をして疲れてるんだい。

ヌマン・クシノッ・カㇱパ・ルウェ・ネ・ワ
 - numan kusinot kaspa ruwe ne wa.
昨日遊びすぎたんだよ。

 「hemanta...」の方は解説なし。
 「明日」は「nisatta」、「昨日」は「numan」、そして「今日」は「tanto」と言います。tantoは、「tan=この」+「to=日」という構成であることに、本に言及はなくともそれぞれの語を別々に学んだことで気づくことができました。
 nisattaの-taはtoに関係している?nisatta、numan両方共n-で始まることには理由がある?と、小さなことですが興味は尽きませんね。そういやダイハツ工業の「タント」って車ありますよね。まぁ、まさかアイヌ語から取ってるわけじゃないでしょうが・・・「今日」という言葉には含みが多いですからね、なんか印象が良くなりました(別に悪かったわけじゃありませんがw)。
 「sinot=遊ぶ」は自動詞です。「サッカーをして遊ぶ」といった言い方はアイヌ語じゃできるんでしょうかね?uturano(一緒に) sinotas(我々は遊ぶ) kusu...うんたらって言い方になりそうな気が。
 「kaspa」は「...しすぎる」です。ホント、日本語の語順そのままに覚えられる易しい構文です・・・と一旦考えましたが、世界で話者数の多い言語の大抵が「...すぎる」を動詞に後置させてますよね、たぶん。
 また、昨日チラっと書いたんですが、アイヌ語の動詞には所謂「現在形」と「過去形」の区別が語形上ありません。時を表す副詞などで補うか、もしくは文脈で時制は判断します。
それでは次、第4課。

- hunak un ecipaye?
- eiga cinukar kusu sapporo or un payeas ruwe ne na.
uturano anukar kusu payean ro!
- tane karpa ka eaykap na. apunno paye yan.
- apunno oka yan.

 文章が一向に長くならねぇぞ?w ・・・しかしこの課はこれでいいのだ。気をつけて頭に留めておかねばならない新出の、とても重要な文法要素があるのに、更に文章が長かったら足踏み万年の羽目になるところだった。

フナクン・エチパイェ
hunak un ecipaye?
きみたちはどこへ行くの。

 「un」単体でも「...へ」を表すみたいですね。hunak単体ではその音は「フナㇰ」ですが、unと一緒に読まれて「フナク-ン」となります。ちなみに「CDエクスプレス アイヌ語」では、仮名同士の間は全角スペースほど空いており、「・」は介在していません。
 「eci」が文章中に初登場です。「e=きみ」にciがついて「eci=きみたち」、非常にわかりやすいですね。きみた「ち」と同じような音を表しているという点もまた、多少なりとも注目せざるを得ない。本当に偶然なんでしょうか?

エイガ・チヌカ・クス・サッポロ・オルン・パイェアㇱ・ルウェ・ネ・ナ
eiga cinukar kusu sapporo or un payeas ruwe ne na.
映画を観に札幌に行くんだよ。

ウトゥラノ・アヌカ・クス・パイェアン・ロ
 uturano anukar kusu payean ro!
一緒に観に行こう。

 ひとりの人間が発している文としてはこれまでで最長のものが出てきました。新出の文法要素もあり、解説にやや労力を伴いそうです。
 昨日も書きましたが、アイヌ語には本来ない言葉は、日本語からそのまま借用の上使われます。本だと単語全体が大文字+斜体で書かれることによりそれが示されています(eigaならEIGA)。勿論俺はそんなメンドっちいことしませんけどね。そもそも斜体だしw
 さて!出てきました、1人称複数形。そして4人称複数形。・・・「4」人称!?
 「cinukar」の「ci-」、「payeas」の「-as」が1人称複数で、「anukar」の「a-」、「payean」の「-an」が4人称複数を示しています。
 アイヌ語の文法用語として見ると、新たな次元を発見したかのような驚きを与えられますが、その実態は「包括」です。
 「私たち」と口にした者(たち)が、話かけている相手のことも包括して表現する際の人称が、「4人称」なのです。
 1人称複数にこうした区別のある言語は世界的に珍しいのか否かは知りませんが、学習経験のある言語の内では、ベトナム語がその1人称複数に於いてまったく同じ区別の表現を持っていました。「chúng tôi(チュング・トイ)」で「相手を含まない私たち」、「chúng ta(チュング・ター)」で「相手を含む私たち」です。「私たちは友達だ」などと言う際、慣れていない内は非常に気をつけないといけませんね・・・。
 すなわち、「cinukar」、「payeas」というのは、話しかけている人間を排他的に見た上での自分たち(言及していませんでしたがこの「私たち」は姉妹、話しかけている人は叔母)の動作を表していますが、この後で発せられる「anukar」、「payean」は、話しかけている人を自分たちが今行なっていること、これから行うことに加えたいという願望が表れた表現というわけです。まぁ、「eci(きみたち)だけで行きなさい」と、誘いは断られちゃいますが。
 さて、1人称、4人称の概念はここまでとして、次は人称接頭辞もしくは接尾辞の1人称ならびに4人称複数についてです(ところで4人称「複数」という言い方は間違いかもしれない。4人称はこれが意味することの性質上、表している人は必ず複数であるわけで。「単数」「複数」って付いてないと落ち着かないんだよ~)。
 1人称複数の動詞人称指標は、これが付く動詞が他動詞であるか自動詞であるかによって、接頭辞としても接尾辞としても用いられます。
 他動詞に付けば他の人称と同じく接頭辞になり、自動詞に付けば他の人称には例のない接尾辞としての利用が見られます。
 その語形は、既に既述している通り、他動詞に対しては「ci-」、自動詞に対しては「-as」、ついでに4人称は「a-」、「-an」です。
 ところで、動詞に接続される1人称複数指標についてまっとうなスペースを割いて説明したので間違いの訂正なんですが、昨日書いた「as=as」という表現、実は、1番目の方の「as(立つ)」にはれっきとした「複数形」があり、「roski」と言います。なので、「我々は立ち上がる」という意味で「アㇱ・アㇱ」という表現は有り得ず、正しくは「roskias」(4人称はroskian)となります。ちなみに、「立たせる」は「a」と言い、これが複数形になると、「as」の複数と同じく、「roski」です。
 ついでに、「rayke」の複数形は単数のraykeという語形をほぼそのままに保ったものではなく、かなり違うものでした。どんなものかは忘れましたが。私が言っていた、単数形から複数形をつくる際に「語末の2文字を変えるだけ」という動詞は、「理解する」です。これも日本語訳の方しか覚えてませんが。
 全部ひっくるめてごめんちゃーい(「まったく成長しないFF6」、遂に更新きたぞ!観たか!?)。
 最後に、「ro」は、「...しよう」を意味します。これまでに出てきた4人称動詞は必ずこれを伴っているので、これなしでも勧誘の表現は成立するのかどうかについては今のところ不明です。
 また、登場の順番が前後しますが、1番目の文章の最後が「na」で終わっているのは、次に勧誘を控えているからだと言うのがわかりますね。「観に行くんだよ、だから一緒に...」ということです。

タネ・カパ・カ・エアィカㇷ゚・ナ. アプンノ・パイェ・ヤン
tane karpa ka eaykap na. apunno paye yan.
今私は行けないんだよ。気をつけて行っておいで。

 すごい偶然ですが、この「tane=今」、アルバニア語の「今=tani」とそっくりです。みんな知ってると思いますが、系統がまったく異なる言語間で似た言葉を見つけるとテンション上がるんですよね。
 先にちょっと書きましたが、「eaykap」は「できない」という意味の動詞です。「できる」はまだ不明ですが、「eaykap」と似ているんでしょうか?また、これ単体で否定を示しているので、これに先立つ動詞の方に改めて否定副詞「somo」を用いる必要はないようです。
 昨日書きましたが、日本語で言う「さようなら」には、「apunno paye yan」という表現があたります。直訳すると「無事に / おだやか(=apunno)に行きなさい」です。

アプンノ・オカ・ヤン
apunno oka yan.
じゃあね。

 「apunno paye yan」が去る人に対するもので、こちらは残る人に対するものです。再び引き合いに出しますが、インドネシア語でも同じように言います。「去る人に対する」方だけ、「selamat jalan(スラマト・ジャラン)」と覚えてます。残る人に対してはselamat tingalだったかな~・・・これはなんか関係ない挨拶の気がするんだよな。
 さて、ここで注目すべきはそれよりも動詞の形なんですよ、実は。
 「paye」はeciに対するものなので複数形であるのはわかるんですが、何故叔母ひとりに対して「an」の複数形である「oka」が使われているんでしょうか?
 第2課の「ahup wa sini yan(アフㇷ゚・ワ・シニ・ヤン; =入って休みなさい)」の「ahup(ahun pl.)」もそうですが、自動詞の複数形の運用にあたっては、まだまだ知らなければいけないことがありそうです。
 さて、そんなこんなで第3課と第4課も見終わりました。ついでにリトアニア語の第1課も。原形をまともに覚えてないという不完全な振り返り方でしたけどね。
 明日は最終日。繰り返される言葉の登場頻度が段々少なくなってきて、更に多彩な言葉で文章が構成されていくようになります。アイヌ語ならではの表現も続々登場!

タント・シカ・シリ / チェㇷ゚・アスパ・ワ・アエ・ロ
次回、「tanto sirpirka siri / cep asupa wa ae ro」!
(ドーン)

 ところで「サイン・バイノー」という言葉を思い出したんですが、これ何語だろう?どこで覚えたんだろう。

2012年5月29日火曜日

3日に分けて書くアイヌ語学習成果-1日目: iyairaykere / hunna an?

今日はアイヌ語の学習内容を振り返ってみようと思います。

 今日、注文していたリトアニア語の本を遂に購入しました。リトアニア語入門(ベスト社; ヴァイダ・ヴァイトクテー 監修、ユーラシアセンター 編; ISBNナシ)です。
 数日前、ISBNがない本はどうやってレジ打ちするのかを社員のひとり(女性)に尋ねて、俺がそういう本を買いたがっていることがその人に知られたんで、他の社員にはわけのわからん解釈してるの(男性)がいたんですけど出勤してきて彼女がレジにいるのを見て衝動的に保管してる場所からダッシュで持ち出してきました。
 ついでに、持っていったら俺より後に続いていた一般の客優先に会計すると言われたんで、待たされてる間に店内のおおまかな在庫がわかる検索機を使用して、今日俺15巻がないかどうか見てみたところ-あった!-んで、これもダッシュで取りに行って、2冊同時にお会計。
 記事書いた後読みます!
 俺ね、中野と(片桐)智司好きなんですよ。でも2人とも最近出番少なくてとっても残念・・・だったのが、実は帰宅してからメシ食べるまでの間に15巻パラパラっと目を通したんですけど、その智司が今回は登場してるじゃないですか~!ちょっとだけだったけど・・・。そして中野は13か14巻のどっちかに出てましたね。こいつも1話だけ・・・しかも話の内容がウスすぎるw それにしても、まったく三橋と接点なさそうな女子大生の家に招かれて行ってみるとヤツがいたなんて、そりゃビックリするわな~。
 バクマン。は久々にアツい展開が見られました。週刊やりつつ月刊でも連載か・・・カッコよすぎるぜ。昔は雑誌掛け持ち(しかも異なる出版社の!)で週あるいは月に何本も漫画描いてる人結構いたらしいですね。どんな時代だ。
 ただあのREVERSI、PCPに比べると誕生までの過程が短いのと、漫画の内容があまり具体的に語られていないのでこちらに魅力が伝わり辛く、服部がPCPよりも入れ込んだことについて説得力があまりない気がするんだよなあ。
 刑法に抵触しないとはいえ完全犯罪の達成を根幹に据えた内容から、オファーはあってもアニメ化は絶望的であるとされたPCPですが、完全犯罪が仮に認められても、そもそもすごい地味な作風であり、アニメとして観る価値があまりなさそうなんだよな。REVERSIはREVERSIで雰囲気は暗そうですが、比較的アニメとしては映えやすい気がします。アニメ化なるのか?いや、なったのか?
 与太話はここまでにして、アイヌ語いってみましょう。
 現在6課まで終えていますが、それぞれの課毎の本文がすごく短いので、1課、或いはバスク語でやったように2課ぽっちではいまいち書いてて物足りない気持ちで終わりそうなので、暗記できている6課全課を振り返ってみようかと思います。
 ただ、ひとつの記事で6課も振り返るとなると文章量がもんのすごいことになって時間がかかってしょうがないので・・・「3日に分けて書くアイヌ語学習成果」として記事を作成しようかと思います。
 ちなみに、アイヌ語はアイヌ語で「aynu itak(アイヌ・イタㇰ)」と言います。この「-k」の発音は日本語にはないもので、後述します。
 では魁の第1課。

- topenpe an na. e yan.
- iyairaykere.
- keraan?
- sonno keraan.
- usey e=ku rusuy ya?
- ku=ku rusuy na.
- o.
- hioy’oy.

 アイヌ語の正書法はいまだに定まっていません。
 カタカナかラテン文字かを用いる綴り方が主流のようですが、おそらく有名なのは前者なのではないでしょうか?俺が初めて文字として書かれたアイヌ語を見た際用いられていたのがカタカナだったから、そんな気がしてるってだけなんですけどね。
 CDエクスプレス アイヌ語では、単語や文章はラテン文字で綴られています。そしてカナにも起こされ、併記されています。
 というわけで俺はどっちででもタイプできるのですが・・・そりゃもう勿論、圧倒的にやり易いラテン文字を利用して、このブログでアイヌ語は常に書くつもりです。カナを用いて綴る際必要になるあの小さな文字は、俺のタイピング環境じゃどっかからコピペしなきゃならんしなあ。
 これはつまり、アルバニア語やらバスク語やらの記事でカナを以ってその読みを示していたが、それはアイヌ語に対してはやらないってことです。
 日本語にはない音もありますが逐一言及しますし、基本的にはホントもう、見たまま読んでもらえれば。

topenpe an na. e yan.
お菓子があるよ。おあがり。

 「見たまま読む」ってことは、つまりこの文だとその発音は「トペンペ・アン・ナ. エ・ヤン」とカナで表せるってことです。
 ちなみに、母音が持つアクセントの位置が、フランス語でいうアクサン・テギュで示されるという記述方法があります。「CDエクスプレス」では言及されていなくて、ja.wikipedia.orgで知りました。とは言っても、本でも、文章中には表されていないだけで、課毎に初出の単語の一覧などでは示されています。
 で、まあいつものことなんですけど、発音はあんまり重視せずやってますんで、単語毎のアクセントの位置はあまり真面目に確認していません。なので、「アクセントの位置を明示する記述方法」では「書きたくない」のではなく、「書けません」。
 ただ、アクセントの位置は大方規則的に決まります。あ、ちなみにCDエクスプレスで扱われているのは「千歳方言」なので、勿論これ以外の方言に於いては、アクセントの位置のみならず他の相違点についてはまったくわかりません。
 で、そのアクセントの位置なんですが、①第1音節が開音節、第2音節が閉音節である単語は、第2音節にアクセントを持ち、②第1音節が閉音節である単語は、第1音節にアクセントを持ちます。
 ということは「topenpe」は「topénpe」か?と思ってしまうのですが・・・これは開音節である第1音節にアクセントを持つという数少ない単語のひとつ・tópen(甘い)から成っている言葉で、基本的なアクセントの位置決定の規則は適用されません。その数は、頑張れば1日費やせば暗記が可能であるくらい少ないです。20くらいです、たしか。「発音編」で全例が記されていて、丸暗記せよって書いてあるんだ。俺はこのtopen(pe)以外には2、3くらいしか覚えてません。
 また、単音節の言葉は、単語表でもアクセントが明示されていないので、アクセントがあるんだかないんだかわかりません。CDを聴く限りでは、明らかにアクセントを持っていない単音節の語があるんで、このことを気にするのはムダではないと思います。
 文頭の語が大文字で始まっていないことについてですが、まあ、別にどうでもいいでしょう。それはヨーロッパ的な正書法の内の一規則に過ぎないはずですしね。で、ラテン文字を母語の記述に用いている人々の大方はヨーロッパに影響を受けているので、自然と文章が大文字で始まっている言語を多く見ることになる、と・・・。
 まあ、正書法が定まってないから、全部大文字でもいいし、いっそのことラテン文字でない文字で綴るってのもアリだと、俺は思いますけどね。

топэнпэ ан на. э ян / топенпе ан на. е јан
キリル文字(ロシア語 / セルビア語準拠)とか、

τοπενπε αν να. ε γιαν
 ギリシャ文字(現代ギリシャ語準拠)とか、

تُپِنپِ اَن نَ. اِ یَن 
アラビア文字(ペルシャ語準拠)とか、

טאָפּענפּע אַן נאַ. ע יאַן 
ヘブライ文字(イディッシュ準拠)とか、

դոբենբե ան նա: է յան 
アルメニア文字(西アルメニア語準拠)とか

தொபெந்பெ அந் ந​. எ யந்
タミル文字とか、

तोपेन्पे अन् न​. ए यन्
デーヴァナーガリーとか(サンスクリット準拠; サンスクリットの/o/と/e/は本来は必ず長音)。

 ・・・当たり前のアイヌ語がわかる人に読ませるつもりがないなら。
 さて本筋入るまでにちょっと長くなっちゃいましたね。
 「an」は「...がある」で、これは単数形、複数形は後で(今日、ではない)出てきますが「oka」と言います。「アイヌ語の動詞には単数形と複数形がある」、そして「その語形は「an」と「oka」のように相互に大いに異なる場合がある」、これはアイヌ語学習の際、特に神経を遣って理解に努めなければいけない要素です。
 で、次の「na」は、あちらこちらの文章中に頻出する、アイヌ語のとても日本語的な要素に属する助詞(仮)です。日本語で「あるよ」と言ったときの「よ」にあたります。
 こういった助詞には「na」の他に「ya」、「wa」が学習の範囲内では既出でありますが、この先もっと新しく出てくる予感がします。
 これがアイヌ語文章暗記の最大の弊害になっています。
 語調を和らげたり豊かにしたりと、例文でもよく目にするあたり、アイヌ語に於いてとても大切な要素なんでしょうし、弊害なんて言うのも実は憚れるところなんですが、「この文の最後にあるのはnaだっけwaだっけ?」と、書いていて考えてしまうことがよくあります。「ruwe ne」ってのもあります。で、これに更に「wa」が付いて「ruwe ne wa」になったり・・・。
 「e」は「食べる」です。和訳からわかる通り、「命令形」です。「きみは食べる」だと、「e=e」です。勿論、読み方は「エ・エ」です。「我々は立ち上がる」は「as=as」、「アシ・アシ」です。だから?って?ほら、そこはかとなくおもしろくありませんか?俺は好きなんですけどね。
 「yan」は、上記「na」や「ya」に用法の似た、これ単体では意味を為さない助詞です。ただ、命令表現に伴って登場するものであるという違いがあります。「yan」を付けた方が丁寧な感じが出るそうです。

iyairaykere.
ありがとう。

 「バスク語学習成果」の記事で書きましたね。再びの紹介になりますが、「ありがとう」は「hioy’oy」、「hap」とも言い、この2つは女性が使う表現なんだそうです。どういう由来があるんですかね?
 ちなみに「殺す」を「rayke」と言います。「熊送り」のことを朧気にですが知っているので、「iyairaykere」は「rayke」の派生語なのかとちょっと考えてしまいました。いや、まあ、この疑問はまだ晴らされてないんですけどね。
 ところで何故こんな物騒な動詞を知っているのかですが、アイヌ語には動詞に単数形と複数形という概念があり(その使い分けはヨーロッパの言語的な常識のみを以ってしては語れないが)、ものによっては相互に別々の動詞であるかの如く語形が異なるものがあり、そういった動詞の紹介の際にこの「rayke」が取り上げられていたんです。まぁ、その複数形は忘れちゃったんですけど・・・。ただ、単数形から複数形を規則的に導き出せるものに比べれば確かに単・複別個に暗記が必要になりそうなんですが、確か見た目としては語末の2文字が相互に違うだけなんですよ、ってことは覚えてます。まったく違うものはホントに違いますからね、上で出した「an / oka」や、その他「arpa / paye=行く」、「ek / arki=来る」とか。

- keraan?
- sonno keraan.
おいしい? - とってもおいしい。

 語るべきことが少ない2つの文章を、応答にかこつけてくっつけました。
 一応、「na」とか「ya」を伴う文は、和訳に「...よ」とかを表すように、それらがある場合とない場合で語調を変えて訳しようと思ってます。「sonno keraan na」だったら「とってもおいしい」と書いてたでしょうね。

usey e=ku rusuy ya?
お湯が飲みたいかい?

 この文章、ホントに和訳そのままの語順なんですよ。即ち、「お湯」「きみ(=e=)」「飲む」「欲しい」「かい?」なんです。これもとても日本語的ですね。だからと言って文章が覚え易いかと言うと、俺は正直まあーったく関係ないと思います。個人的に、現にそういう実感があったためしがない。欧米の言語の常識にアタマが侵食されてるからでしょうね、きっと。いいことなのか悪いことなのかは人それぞれ。取り敢えず、俺個人は欧米至上の思想がないってだけで十分だと思ってます。え、どこ至上って?そんなもん日本に決まってるやん。
 アイヌ語には、第6課で「私」が初めて出てきたことからわかるように、人称代名詞もあるようなんですが、同じく第6課でのその「私=kani」の使用例から見るに、それがあろうがなかろうが、動詞の主語は人称接頭辞(だったかな、名前・・・)によって必ず示されるようです。

私は飲む: ku=ku
きみは飲む: e=ku
私たちは飲む: ci=ku
きみたちは飲む: eci=ku

 ※3人称単数を示す人称接頭辞はなく、同複数は未登場なのでどういうものかまだわかりません。
 ※1人称複数の人称指標は、他動詞に対してはその頭に、自動詞に対してはその末尾に付随します。自動詞に付くものについては後日。

ku=ku rusuy na.
飲みたいな。

 今更ですがこの「=」を使う書式、気に入りません。ノートではハイフンに置き換えてます。たまにアポストロフを使ったり、人称接頭辞を動詞に密着させたり、しっくりくる方法を模索中です。
 個人的には人称接頭辞(もしくは接尾辞)は動詞に密着させて書きたいんですけど、そうなると、CDエクスプレス準拠の方式による綴りが示す音と変わる点が生じるのではないかという疑問があって、誰に見てもらうわけでもないノートの上であってもそうやって書く気にいまいちなれないのです。
 たとえば、「ku=iwanke(私は元気だ)」の「ku=」と「i-」の間では、声門を一瞬閉鎖するのが正しい発音なのでしょうか?それとも、「ku=i-」は、「kuy」に等しいのでしょうか?もしそうであるとすると、人称接頭辞と動詞の語頭は機械的に接続できないことになります。この「iwanke」なら、「kuywanke」、「eywanke」などと書かねばならない。
 ただ、文字は所詮文字です。単なる記号です。言語の本質は音であり、「=」は人称接頭辞が動詞の一部でないことを便宜的に示しているだけなのかもしれません。
 それならそれでいいのですが、もし違うのなら、人称接頭辞(単音節でないものはその語末)の母音と、動詞語頭の母音の間は声門閉鎖を挟む必要があると誰かに説いて欲しいところです。
 フランス語のアンシェヌマンのように、2つの単語同士の語頭と語末が結合してあたかも1つの言葉であるかのように聞こえる現象は、それを避けねば語や表現の解釈に間違いが生じる場合、その他に特別な理由がある場合を除けば、口と舌の動くまま声帯の震えるままに自然と行われるものです。
 尚、アイヌ語に於いては、アポストロフを使って、綴りの上で発音に於いてイアテュスが避けられていることを明示することができます。たとえば、「hioy’oy」なんかがその好例です。これにアポストロフがないと、「ヒオーイヨイ」になるわけです。

- o.
- hioy’oy.
どうぞ。 - ありがとう。

 これも、2つの文章がそれぞれいずれも一単語のみで構成されているので、ムダを省くために一行に纏めました。
 ところでこの「hioy’oy」に使われているものに限らず、アイヌ語タイプに於いてはアポストロフは意図的に全角で打つことにしてます。この形が好きなんですよ~。「'」はダメです。ちなみに今のところ、語中の声門閉鎖が明示されている言葉で知っているものはこの「hioy’oy」だけです。
 そういえば、hioy’oyの音写を「ヒオーイオイ」と書いてますが、これは本のカナ転写に準拠しています。また、CDでも、明らかにhioy-のoは長いです。
 ラテン文字からはわかりませんよね。やっぱカナで発音書いた方がいいかなって気がしてきてます。もうここまでカナ抜きで書いてきてるから、追加がメンドくさいので少なくとも今日はこのまま通しますが。
 では本日を〆る第2課。

- hunna an?
- Yosiko ku=ne ruwe ne.
- Yosiko e=ne ruwe?
- ruwe un.
- ahup wa sini yan.
- e.
- e=iwanke ya?
- ku=iwanke wa.

 1課よりは長いけど、単語の繰り返しが多くて覚える必要のある言葉は少ないです。

- hunna an?
- Yosiko ku=ne ruwe ne.
どちら様? - ヨシコです。

 うん、語るべき要素が多いにせよそうでないにせよ、短い2つの文章はこうやって書いた方がいいやね。
 「hunna an?」は、直訳すると「誰がいる?」です。
 さて、他者の家を訪ねるというこの場面にちなんだ話をおひとつ。
 少なくとも、俺が読んだことのあるCDエクスプレスシリーズでその内容を覚えている「現代ヘブライ語」、「ペルシア語」、エクスプレスシリーズ「イディッシュ語」(これ「ニューエクスプレスシリーズ」にならねえかなあ・・・)に於いては、その言語を話す人たちの文化についてのコラムがいくつか読めます。「CDエクスプレス アイヌ語」も同じくそう編集されているのですが、アイヌ人についての情報が大勢の現代日本人にとって一般的でない今、それに言及されている箇所の面白さはとても新鮮です。
 アイヌ人は、他人の家を訪ねると、その辺のものを叩いて音を出したり咳払いをしたりして家の者が己に気づくのを待ち、訪問を受けた側は客を認めると家の中を片付けて迎える環境をつくり、それから中へ招き入れるそうです。また、日本語の「こんにちは」にそっくりあてはまる表現がないそうで、それも家を訪ねた際にかけるべき声を持たないことに関係しているみたいです。
 あ、ちなみに「CDエクスプレス アイヌ語」の著者は生粋の日本人で、CDへの吹き込みを行なっているのもこの人です。
 「Yosiko」の語頭が大文字ですが、本では固有名詞の語頭はこのように大文字で書かれています。他に、「Sapporo(札幌)」、「Nupurpet(登別)」など。また、アイヌ語に元来ない言葉は単語丸ごと大文字で書くことでそれを示しているようで、「EIGA(映画)」、「GAKUSEI(学生)」などがこれに該当します。
 既述の通り、人称接頭辞「ku=」は「私は」にあたりますが、たとえば「私はヨシコです」を「ku Yosiko ku=ne」とは言いません。上で書いた通り、人称代名詞としての「私」は「kani」であり、これの初出は第6課ですが、「私」を主語に持つ動詞はそれまでに何度も出てきました。主語が動詞に付く人称接頭辞で判別可能であるという文法の一要素は、独立した語としての1人称、2人称の明示の省略が可能であることを証明しています。
 故に、「私はヨシコです」と言う際、アイヌ語では「私は」という人称代名詞は省略されても問題なく、結果的に、「ヨシコ 私はです」と書かれているかのような語順になります。
 たった第6課に至っただけですが、人称接尾辞の重要性は既に身に染みて理解できています。アイヌ語の動詞は、unë jam, ti je、ni naiz, hi haizなどというような活用こそしませんが、その使用に於いては主語が必ず判るようになっているのです。
 「ruwe ne」は、直前に述べたことを断定する働きがあるそうです。
 ただ、これにしても「na」や「wa」にしても、時折、意味よりも己にしっくりくる口調や、会話の流れでの小気味良いテンポを保つことを優先して挿入されている気がするんですよね。
 実際、このruweを用いての疑問文「Yosiko e=ne ruwe?」と、用いずの「Yosiko e=ne ya?」、「Yosiko e=ne?」の2つは、使い分けの意味がない程度の違いしかないようですし。

- Yosiko e=ne ruwe?
- ruwe un.
ヨシコなのかい? - そうだよ。

 そういえば今更だけど、・・・って切り出し方が多すぎて反省してまーす。
 で、今更だけど、「si」と書いて日本語発音の「シ」と酷似した音を示します。それで「Yoshiko」と書く必要がないわけですね(というか日本語をラテン文字で表記する際の手法なのでアイヌ語の綴りと混合させて考えること自体が間違い)。
 上で「我々は立ち上がる=as=as」と書いたのを覚えてますか?アシ・覚え・・・なんでもないです。
 「as」の音を「アシ」と表現しましたが(本に厳密に沿うと「アㇱ」)、ヘボン式ローマ字表記で「ashi」に等しいわけでなく、この「シ」は謂わば、「シ」から声帯を震わせて出す「イ」の音を除いたような音です。
 上でも述べたように、「Yosiko e=ne ruwe?」でも「Yosiko e=ne?」でも意味は同じですが、一応の知識として、平叙疑問文はその語末に「ruwe」を追加することで形成することもできると覚えておきましょう。
 そして「ruwe疑問文」(勝手に命名)に対する返答が、「ruwe un」です。まるで日本語の返事、「うん」みたいですね。

- ahup wa sini yan.
- e.
入って休みなさい。 - うん。

 動詞複数形の指標のひとつに、語末の-pがあります。この「ahup」も複数形です(単数形はahunだったっけ・・・)。第6課で初めてそうだとわかりました。複数形を持たない動詞もあります。「sini」が複数形かどうかは忘れました。
 で、動詞が複数形として用いられる条件として、様々な言語でよく見られるように、その主語が複数であるかどうかという区別がありますが、・・・当然ながら、ヨシコは独りです。
 もうひとつの条件は、動詞が示す動作が複数回行われるかどうか、ですが、これが自動詞の複数形に関係あるのかどうかはわかりません。今のところこれが影響して複数形として登場した動詞は他動詞だけです。

 su ku=huraye kusu wa cep poronno ku=huraypa.
 私は鍋を(1回)洗って、魚をたくさん(何度も)洗った。

 ※cep: 魚、poronno: たくさん(形容詞ではない。というかアイヌ語に形容詞はない)
 ※動作が現在のものであるか過去のものであるかは、動詞単体の語形上は判別できません。

 まあつまりどーゆうこっちゃい。今んところは不明な文法規則が働いてる「ahup」(と、もしかすると「sini」も)です。
 そしてこのように、命令文に於いて動詞は人称接頭辞抜きで用いられます。勿論、相手が複数いて、且つ命令に使う動詞に複数形があれば、動詞は複数形に変えて口にします。

 apunno paye yan.
 気をつけて行きなさい。(=さようなら)

 ※paye: arpa複数

 「ahup」の「-p」の読み方について。英語の「type」を正しく発音してみましょう。最後は息が口から漏れますね?声も共に漏れるヤツはやり直し!で、次は息を漏らさず、口を閉じたまま発音を終えてください。そのときの「-pe」が、アイヌ語の単語末の「-p」です。他、「-k」(ekなど)、「-t」(Nupurpetなど)も、息を漏らさず、発音の構えを口で作ったまま終わることで表現される音です。
 「wa」は、和訳からすると、文字としては明瞭に表れていない「そして」を意味するものかと解釈しそうになりますが、「...して」という意味を持つそうです。動詞の後だけにつくモノ?つまりは「そして」なんじゃないの?どちらもまだ判然としません。ただ、「そして」という和訳がそっくり充てられている言葉はいまだに登場していません。
 「e」の用法なんですが、これは疑問副詞のない平叙疑問に対する答えとしては、本来使わないそうです。たとえば真下の文では、「元気かい?」と尋ねられて、「e.」と答えていない。このように、質問に使われた言葉を用いて答えるのが「アイヌ語らしい」作法なんだそうです。但し、最近は、答える側が内容の反復をせずに「e.」と返すことも多くなっているんだとか。他文化-というか日本語の影響なんでしょうねえ。
 尚、この「e」は、本では「エー」と音写されています。何故長音として表現されているかについての理由が書いてあったんだけど、忘れチャッタ・・・。

- e=iwanke ya?
- ku=iwanke wa.
元気かい? - 元気だよ。

 なんかもう、上でぐちゃぐちゃ語ってる際に出したんで、いいですよね。
 「na」と「wa」の使い分けですが、いずれも「...よ」と訳せることに加え、「na」の方は、「...よ、だから...」と、「発せられない要求」を示す機能があります。たとえば、第1課一発目の文、「topenpe an na. e yan.」は、厳密には、「お菓子があるよ、(だから)おあがり」を意図した表現です。

 wakka ku=ku rusuy na.
 水が飲みたいな(、だから持ってきて)。

 まあ、この「発せられない要求」が実際通じるものかどうか、そしてこういう言い方は時と場合によって失礼にあたるのではないかと、色々考えさせられる用法ではありますね。
 「あっそ、自分で入れてきたらいいじゃん」ってアイヌ語で言えるようになれたら一人前ってことにしようかなw

 明日は非番なんでたぶん2日目書きます。

2012年5月27日日曜日

Mirëdita, si je?

3言語学習成果の記録が終わってすぐに
新たな成果を記事にできることを嬉しく思います。

 今日暗記を終えたばかりの、アルバニア語の一課本文を以って記事作成といきましょう。

- Mirëdita, Sokol!
- Mirëdita, Besnik! Si je?
- Mirë, faleminderit. Ku po shkon?
- Po shkoj në restorant. Atje do të ha drekën tani.
- Shkojmë bashkë! Edhe unë do të ha tani.
- Ç'do të bësh në mbrëmje?
- Do të rri në shtëpi.
- Do të punosh?
- Jo, nuk do të punoj, do të pushoj. Po ti?
- Unë do të shkoj në teatër.

 例によって第何課だったか・・・。
 昨日のバスク語学習成果記事で言及したアルバニア語の接続法は、この課で初登場したものです。

ミラディタ、ソコル
Mirëdita, Sokol!
こんにちは、ソコル。

 「mirëdita」は、見ての通り「mirë=良い」と「ditë=日」の合成語ですね。「良い」+「日」で「こんにちは」という挨拶になるのは色んな言語や文化に於ける常識であるという感じすらあります。
 ところで、実はこの「mirëdita」が初めて知ったアルバニア語の挨拶=初めて本に出てきた間投詞)ではなく、それは第1課の最初の言葉、「alo(=フランス語・salut)」でした。

ミラディタ、ベスニク. スィ・ィエ
Mirëdita, Besnik! Si je?
こんにちは、ベスニク。調子どう?

 特に言うべきことないな・・・。

ミラ、ファレミンデリト. ク・ポ・シュコン
Mirë, faleminderit. Ku po shkon?
元気だよ、ありがとう。今どこに行くところ?

 昨日の記事の最後に書いた通り、「faleminderit」で「ありがとう」。語尾の形を見るに、文法的には男性名詞複数主格定形っぽいですね。

 プリンダリト・エ・テウタス・バノィナ・ナ・フシャト
 Prindërit e Teutës banojnë në fshat.
 テウタの両親は村に住んでいる。

 「ku」は「どこ(へ)」で、「po」は動詞によって示される動作が進行中であることを示す助詞です。

ポ・シュコィ・ナ・レストラント. アティエ・ド・タ・ハ・ドレカン・タニ
Po shkoj në restorant. Atje do të ha drekën tani.
レストランに行くところだよ。そこで今から昼食を食べようかと思って。

 「atje」は「そこ(で)」、「tani」は「今」、「drekën(f.)」は「昼食; 食事」で、単数対格定形です。
さて、ここで接続法が初登場です。言わずもがな、「do të ha」のことですね。

●ha接続法現在形
s. / pl.
unë ha / ne hamë
ti hash / ju hani
ai hajë / ata hanë

 直説法現在形は、単数2・3人称以外は上記の通りで、これら2つはそれぞれいずれもhaです。
 次に、直説法現在形が子音に終わる場合:

●hap(開ける)接続法現在形
s. / pl.
unë hap / ne hapim
ti hapësh / ju hapni
ai hapë / ata hapin

 これの直説法現在形単数2・3人称はhapです。2人称単数は子音+shとなるでなく、子音とshの間にëが挿入され、3人称単数は、haの接続法現在で+jëとなっていたところが、追加されているのがëだけになっているのが判りますね。
 で、動詞を接続法に活用し、その動詞の直前にtëを置くことで動詞接続法として、そして更に「të+接続法」の直前に「do」を置くことでその動詞で未来の動作を表現できます。「動詞未来形」と名付けられているかどうかは・・・わかりません。「動詞接続法」が、現実的でない動作を表すものなので、意味の解釈によって未来のことも示すことができるというだけなのかもしれませんね。

シュコィマ・バシュカ. エゼ・ウナ・ド・タ・ハ・タニ
Shkojmë bashkë! Edhe unë do të ha tani.
一緒に行こうよ。俺も今から食べるつもりだったんだ。

 「①shkojmë ②bashkë」で、「①=allons-y ②=ensemble」。「edhe」は「...も」を意味し、位置としては対象となるものに先行するようです。

 ポ・シュコン・ナ・テアタル・エゼ・ユ
 Po shkon në teatër edhe ju?
 あなたも劇場へ行くところですか?

 ※主語と動詞の位置を倒置させることによって平叙疑問文を形成します。

 尚、接続詞「edhe(e, dhe)」と同じように、複数の語形を取り得る語なのかどうかはわかりません。

チュド・タ・バシュ・ナ・ンブラミェ
Ç'do të bësh në mbrëmje?
夕方は何をするんだい?

 「ç'」の原形ってなんなんでしょうね。第1課には「Ç'është Agimi?(チャシュタ・アギミ=アギムとは何であるか→アギムは何をしている人ですか)」という文章があり、ここでも疑問詞「ç'」は動詞に直接付随しています。また、第2課には「Çfarë ke?(チュファラ・ケ=きみは何を持っているんだ→どうしたんだ)」という表現があり、動詞の直接目的としての補語疑問詞には「çfarë」というものがあることがわかります。何故上の文章では「Çfarë do të bësh...」という表現になっていないのか、今のところはわかりません(解説の〆方がわかりませんばっかだな)。
 「bësh」の原形はbëjです。直説法現在は単数: bëj, bën, bën, 複数: bëjmë, bëni, bëjnëです。

ド・タ・リ・ナ・シュタピ
Do të rri në shtëpi.
家にいるつもりだよ。

 和訳としては表れていませんが、「rri」は「留まる」という意味です。そういえば、アルバニア語、タミル語、バスク語、サンスクリットを書いたノートを撮った画像を載せた記事で言及するのを忘れていた気がするんですが、「rr」という二重子音は巻き舌で発音されるRの音を表します。

ド・タ・プノシュ
Do të punosh?
勉強するの?

 実は本での和訳は「働くの?」になっているのですが、家にいて働くってなんじゃい?と俺としてはしっくりこないので(内職ってのもあるが、そこまで俺、考えないといけない?w)、punoj(> punosh)が持つ別の意味、「勉強する」を充てました。フランス語「travailler(トラヴァィエ)」、英語「work」なんかと同じような動詞なんですね。

ヨ, ヌク・ド・タ・プノィ, ド・タ・プショィ. ポ・ティ
Jo, nuk do të punoj, do të pushoj. Po ti?
いや勉強はしない、休息を取るよ。きみは?

 これも見たまんまですな。「po」は接続詞、「edhe」との違いはなんだろう。「edhe ti?」とすると「きみも(休むかい)?」という意味に取られちゃう可能性があるかな?

ウナ・ド・タ・シュコィ・ナ・テアタル
Unë do të shkoj në teatër.
俺は劇場に行くつもりだよ。

 これも特に言うことなし。
 接続法が登場したってこと以外は、言及すべき箇所の乏しい課なんですよね。
 接続法現在の語形が直説法現在と比べて大きく違わないことには、学習の円滑な進捗を図る上で大いに助かりましたね。フランス語でも両者の語形は似通っていますが、なんか関係あるんですかね。伝統?イタリア語とかスペイン語の接続法が学習済みだったらもうちょい色々言えたかもな~。

オマケ

●フランス語・ouvrir(ウーヴリール=開ける=アルバニア語・hap)直説法現在形
s. / pl.
j'ouvre(ジューヴル) / nous ouvrons(ヌ・ズーヴロン
tu ouvres(テュ・ウーヴル) / vous ouvrez(ヴ・ズーヴ
il ouvre(イルーヴル) / ils ouvrent(イル・ズーヴル)

●同・接続法現在形
s. / pl.
j'ouvre(ジューヴル) / nous ouvrions(ヌ・ズーヴリヨン
tu ouvres(テュ・ウーヴル) / vous ouvriez(ヴ・ズーヴリェ
il ouvre(イルーヴル) / ils ouvrent(イル・ズーヴル)

 être, allerなんかは互いにかなり異なりますが。
 尚、フランス語の接続法には現在形の他に半過去形がありますが、家で読むフランス語でも大学での学習範囲でも滅多にお目にかかったことがないので、どんな語形だったか全然覚えてません・・・。

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