2012年5月31日木曜日

ry)3日目: tanto sirpirka siri / cep asupa wa ae ro

Сайн байна уу?




ゑ?

 「サイン・バイノー」はモンゴル語の挨拶でした。グーグル先生はなんでも知ったはるわホント。それより俺はこれをどこで知った?
 俺が持ってるモンゴル語の本で?
 ありえねー。
 だっていまだに字が読めないもん(笑)。
 つーかこの綴りで「サイン・バイノー」なのか~。
 直訳すると「元気ですか?」だそうです。だから最後が「?」で締められているわけですね。こりゃ新鮮。
 「Laba diena!」のように「!」で終わらないからといって「こんにちは」ではないとは限らないと。
 言語、そしてそれを育む文化・伝統・風習は本当に面白い!
 さてそれではアイヌ語最終日、まずは5課!

第5課: tanto sirpirka siri

- numan to epitta apto as korka, tanto sirpirka siri!
- kupopke humi! ney ta ka sinotan kusu payean ro!
- tanto kunepki kusu, nisatta sinotan ro.
- nisatta mean wa upas as nankor, sirpopke hi ta kusinot rusuy.

 この課から暗記にも大分気合が必要になってきます。

ヌマン・ト・エピッタ・アㇷ゚ト・アㇱ・コㇿカ, タント・シㇼピㇼカ・シリ
numan to epitta apto as korka, tanto sirpirka siri!
昨日は一日中雨が降っていたけど、今日はいい天気だなあ!

 単語毎のうんちくを知らないと、ホント和訳した通りの語順で各単語の意味を確認していけばいいだけであることが多いので、よく語るに困ります。
 「as=立つ」について書いたときすっかり忘れてたんですが、「(雨や雪などが)降る」を表す「as」もあります。
 「korka」は「...だけど」ですが、文頭に立っている例は見たことがないので、これを以って話を始められるかどうかはわかりません。
 さて、こっからは今回の課の目玉です・・・「sirpirka」という言葉。
 「天気が良い」という意味です。他言語で「天候」についてのみ用いられる形容詞というのは見たことがなかったので、この言葉ひとつが登場することでアイヌ語の独特さがよりよく感じられました。
 ところで天候についての「形容詞」と言いましたが、これは便宜上のことで、アイヌ語には形容詞がありません。実は既にちらっとそう1日目に書いてました。
 「おいしい(第1課の「keraan」)、「暖かい」、「寒い」、「良い」、「裁縫が上手い」など、少なくとも今挙げたものはすべて「自動詞」です。
 日本語に訳せば形容詞でしかないんですが、これらが動詞であることで、日本語を含む他の言語と比較して「動詞としての形容詞」の運用には何か気をつけねばいけないことがこの先出てくるのでしょうか?たとえば時制が動詞の語形上区別される言語に於ける「形容詞」がこういったものであると、「形容詞に活用がある」などが考えられますね。
 ちなみに「pirka」の部分が一般のことの形容に用いる「良い」であって、「sir-」がついて「天気が~」という意味になります。
 次の「siri」は、これも実に独特な表現なのですが、「目で見えるものに対しての感嘆」を示します。この他、この課にはない「人伝に耳に入れたことに対する感嘆=hawe」、この後登場する「実感できる味や感触などに対する感嘆=humi」がそれぞれ別個の言葉で表現されます。アイヌ人の感性・・・計り知れないね。

クポㇷ゚ケ・フミ. ネィ・タ・カ・シノタン・クス・パイェアン・ロ
kupopke humi! ney ta ka sinotan kusu payean ro!
暖かいなあ!どこかに遊びに行こうよ。

 そしてまた出てきました、アイヌ語のおもしろさを語る際に外せないであろう表現。
 「気候が暖かい」と言う場合と、「人が暖かさを感じている」と言う場合には、互いに異なる言葉を用います。・・・とは言っても、核となる言葉は両表現で共通していて、後者を示す場合の単語の頭に「sir-」をつけるだけで前者の表現となります。知っている限りは、ですが。
 で、この「kupopke」は、人称接頭辞「ku-」が付いていることからわかるように、「私は暖かい=私は暖かさを感じている」という意味です。いちいちそう書くと日本語として不自然なので、こうやって時間をかけながらひとつの単語を解説する際以外の和訳には反映させられませんね。
 でも考えてみると、気温を感じる主体(=人)が発する言葉としての表現と、数値化されるなどして判明する客観的な事実は、その程度についての判断の根拠が違うので、それぞれ独立した言葉(文ではなく)で示すことができてもおかしくはありませんよね。ただ、実際どういう単語でそれらが表現されているのかというと、先述した通りなので覚えるのは容易ですが。
 そして「humi」で、「私」が実感している気温に対しての感嘆が表現されています。
 「ney」は「どこか」です。見た目としては、「hunak(どこ)」とは互いに完全に別個の言葉みたいですね。
「ta」は「...へ」ですが、これまでにこの和訳のできる言葉がいくつか登場しているものの、その使い分け方は判然としていません。
 「sapporo or un」で「札幌へ」、「hunak un」で「どこへ」、そして第6課に出てきますが、「pet or ta」で「川へ」、「atuy sam ta」で「海のそばへ」です。これだけだと使い分けの根拠はわからないですね~。「hunak un」以外は「un」ないしは「ta」の前に挿入されているものがあるってのが一応の共通点ではありますが。
 「ka」は、「どこか」、「何か」など、はっきりしないものに後置されます。さて、その必要性は如何ほど・・・?直訳だと、「ney ta」で十分「どこかへ」ですしね。・・・日本語として言う場合の「か」がアイヌ語の「ka」にあたっていると思えば、納得できんことも・・・こじつけですがw

タント・クネㇷ゚キ・クス, ニサッタ・シノタン・ロ
tanto kunepki kusu, nisatta sinotan ro.
今日私は仕事があるから、明日遊びましょう。

 和訳では「仕事がある」としましたが、厳密には「nepki=働く」です。

ニサッタ・メアン・ワ・ウパㇱ・アㇱ・ナンコㇿ, シㇼポㇷ゚ケ・ヒ・タ・クシノッ・ルスィ
nisatta mean wa upas as nankor, sirpopke hi ta kusinot rusuy.
明日は寒くなって雪が降るだろうから、暖かいときに遊びたいな。

 さて、「popke」の用法を解説する際に、「気候としての温度」と「人が実感する温度」の表現の違いは「sir-」の有無で表されると書きましたが、そうでないものもあります。
 上記文章内の「mean」がそれに該当します。文脈からして明らかではありますが、もうひとつおまけとして人称接頭辞がついてないことから判るように、こちらが気候に対する言葉で、人を主語にした場合は「merayke」と言います。「sir-」が付いていないことも、語形に違いがあるところも異色ですね。
 「nankor」は「...だろう」という意味ですが、いかなる文脈に於いても、確定的でないものや推測が元になっている表現に後置させることができるのかどうかはまだわかりません。peut-êtreにあたるんでしょうか?
 「hi」は「...のとき」で、この言葉を知ったとき、何故だか俺は「...のときに」を示す一語がアイヌ語ならあるんじゃないのと思ってしまいました。
 というわけで5課終わりです。「humi」、「popke」に代表される表現がこの課の目玉でしたが、次の第6課ではまた、日本語では一言では表現しきれない概念が単語として示される例が見られます。

第6課: cep asupa wa ae ro

- pet or ta rapas wa cep poronno cikoyki wa arkias ruwe ne.
- kani anak atuy sam kusan wa kuperay korka, sinep ka kukoyki eaykap.
- cep asupa wa ae ro!
- su kuhuraye kusu, cep ehuraypa wa etuypa yak pirka.

 この課の文章の完全な暗記はなっかなか適いませんでした。覚えたアイヌ語(アイヌ語に限らずですが)が、和訳を見て頭から引っ張り出せるかどうかを以って暗記が完了したかを判断しているのですが、何度もアイヌ語による本文や単語表を見直したりしてましたね~。

ペトッタ・ラパㇱ・ワ・チェㇷ゚・ポロンノ・チコィキ・ワ・アㇻキアㇱ・ルウェ・ネ
pet or ta rapas wa cep poronno cikoyki wa arkias ruwe ne.
私たちは川へ下りて、魚をたくさん捕ってきたんだ。

 俺がいちいち言うことじゃないんでしょうけど、「登別」の元の言葉である「nupurpet」の「-pet」は上記文章頭の「pet」であり、「nupurpet」とは「色の濃い川」という意味です。
 「rap」は「ran」の単数形で、「上から下へ下りる」という動作を表します。動詞ひとつで、この話者の家が川よりも上方に位置していることがわかりますね。便利だ。日本語でも同じように「川へ下りて」とは言うでしょうが、大抵「行って」の方が口にされているんじゃないでしょうか?
 「poronno」、これも1日目にちらっと出しましたが、「たくさん」という意味で、アイヌ語としての品詞として分類するなら何になるんでしょうか・・・。
 実は、「属性的な形容詞の用法」が学習中にまだ出てきていません。まあ、「述語としての形容詞の用法」もまだだけどね。だから形容詞はないんだって!いや便宜上そう言わないと話進め辛くてしょうがないんだって!・・・たとえば「大きな川」といった表現がいまだに見られないのです。
 これは・・・あれだよ・・・そういうことを言うにあたって色々と気をつけないといけないことがあるフラグですよ・・・きっと。
 ちなみに「大きい」は「poro」と言います。札幌の「ポロ」ですね。「poronno」は、その意味と語形から考えるに、この「poro」からできている気がします。また、「apunno(おだやかに)」と同じ語尾を持っていることが気になります。品詞の分類がこの語尾によって為されているのでしょうか?また、「uturano(一緒に)」も「-no」で終わっていることもこれらの語との関係の有無が気になるところです。
 さて次に、「cikoyki wa arkias」で「私たちは捕ってきた」という、日本語そのままの言い回しです。即ち、「arki(< ek pl.)」は「来る」という意味で、文脈から判断してその動作が過去のものであると判断して、「来た」を示します。
 英語でもなんでも、ある程度和訳したことのある人ならわかるでしょうが、日本語で動作の完了に「きた」を付随させる場合、元の言語には「来る」を意味する動詞がどこにも見当たらないことの方が多いと思います。
 たとえば「Il a amené beaucoup de fleurs dans notre maison.(イラ・アムネ・ボクー・ド・フルール・ダン・ノートル・メゾン)=彼はたくさんの花を私たちの家へ持ってきた」という文章の中には「venir(ヴニール)=来る」という言葉は見当たりません。まぁ、和訳の仕方にもよる問題ではありますが。
 これまで日本語的表現をよく含んでいるところをアイヌ語の中に見出してきましたが、また更に日本語的な言い回しの発見と相なったわけですね。
 ただ、逐語訳的に見ていけば「捕って」+「来た」そのままなんですが、アイヌ語的表現法を突き詰めていった場合、この「ek」が、和訳すると「...してきた」となる表現に於いていつでも「ek」が使われているとは限らないでしょう。たとえば、もしかすると、ある動作が「今より極近い時に完了した」ことを強調するために、その動作を示す動詞に「ek」が後置されるのかもしれませんし。この課の最初の文章が示す内容が、この話者が話した時点からどれくらい前に完了したことなのかが判れば、もう少し解釈の掘り下げに寄与すると思うんですが。

カニ・アナㇰ・アトゥィ・サㇺ・タ・クサン・ワ・クペラィ・コㇿカ, シネㇷ゚・カ・クコィキ・エアィカㇷ゚
kani anak atuy sam ta kusan wa kuperay korka,
sinep ka kukoyki eaykap.
私は海のそばへ下りて釣りをしたんだけど、1匹も捕れなかった。

 さてこれも既に別の課を振り返ったときに出した言葉ですが、「kani」は「私」です。注意すべきなのは、あくまでも「私」であって、「私は」ではないことです。「kani anak」と言わないと「私は」にならないようです。これまで一切出てきていなかった人称代名詞ですが、今回登場したのは、「きみは魚が釣れたけど私は釣れなかった」という対比を強調するためでしょうね。動詞の活用でその語形上主語が明らかである場合など、人称代名詞を明示する必要がない他の言語でも見られる用法です。
 たとえば、「アルバニア語学習成果」で登場した、

ド・タ・プショィ
- Do të pushoj. Po ti?
(私は)休むよ。きみは

ウナ・ド・タ・シュコィ・ナ・テアタル
- Unë do të shkoj në teatër.
私は劇場に行くつもりだ。

 といった表現など。そういえばバスク語も動詞から主語が判断できる言語ですが、人称代名詞は大抵の例文中で使われていましたね。それが「バスク語的」なんでしょうか。
 さて、日本語では一語で言い表せない動詞、「san(pl.: sap)」の登場です。やっぱり文化、風習、言語の育まれた土地の特色など、言語を形成する要素というのは実に興味深いですね~。
 この自動詞は「山から海へ下りる」という意味で、敢えて類似の言葉を日本語から探すなら、京都で言う「下(さが)る=南へ行く」が適当ですかね。ところで俺は京都市民ですが、京都のことについてのみならず地理全般にとんと疎いので、道案内で「なんとかかんとかを下って~」などと言ったことはありません。電車での方々への行き方なんかも、バイト先の退職した上司(横浜出身)の方が詳しかったくらいです。
 この動詞は、この話者の家が山にあることを示していると解釈していいんでしょうか?今更ですが、この会話をしているのは兄弟です。ということは、「川がある位置より高い所から下の川へ行って魚を獲った」方(=弟)も勿論同じ家に住んでいるはずです。彼の動作を「san」で示さなかったのは、表現の豊かさと語彙の増加を図るためだと思いますが、一方で、クセなのか考え過ぎなのか、「san」は別に彼らの家が山の中にあるわけではなく、兄(sanと言った方)は「最初は山で遊んでいて、そこから釣りをしに海の方へ行った」と解釈することもできなくはないでしょうか?
 アイヌ人って、山に住んでる人が多かったりするんですかね?ちなみにCDエクスプレス アイヌ語で舞台となっているのは現代であり、更にアイヌ人の生活風景をより例文に反映させて描写するために一昔前に設定されているとのことなんで、たとえば井戸から水を汲み上げる場面が登場するそうですよ(まえがきより)。楽しみだ。
 「peray」は「(...を)釣る」でなく、「釣りをする」という「自動詞」です。つまり、「魚を釣った」と言えないってことですね。他動詞化する自動詞とかって、あるんでしょうか?
 「sinep」は文章中のみならず、単語表でも「1匹」と訳されています。つまり、フランス語などでは「un homme(アノム)=1人の男」と「un poisson(アン・プワソン)=1匹の魚」と、対象がなんであれ数詞は同一ですが、アイヌ語では「1人」と「1匹」は別個の言葉で表されるということでしょうね。しかもこの「1匹」、もしかしたら「魚」のみに用いられる可能性もありますね。おそろしいことです・・・。
 日本語の複雑さが語られる際、その助数詞の豊富さが諸要素に混ぜてよく言及されますが、日本人でも常に正しく使えている人は稀だってくらいですしね、生粋の日本人で日本語を母語にしてるなら他の言語-たとえば中国語、ベトナム語など-の多数の助数詞も抵抗なく受け入れて暗記に励むことができるでしょうってわけにはいかないのが実情です・・・。受容の下地だけなら、ある程度の年齢に達している人であれば十分でしょうが。
 さてこの「sinep」には「ka」がついています。後に「eaykap」があるので混乱してしまったのですが、この「ka」は「sinep」を修飾している、ということでいいんですよね。
 5課の「ney ta ka=どこかへ」という表現で見たように、「ka」は不確かなものに後置される言葉でもありますが、否定詞「somo」や、第3課で初出の「eaykap」の直前に付けられていた、否定を意味する語に先行するものとしての「ka」もあります。ここでも考え過ぎなんでしょうが、「sinep」の直後の「ka」は、「sinep ka kukoyki eaykap」の「eaykap」からは離れているので、修飾の対象はおそらく「sinep」ですが、えーっと、厳密な解釈の仕方は・・・。「1(匹)」って不確かなのか?まぁ、他の言語で数詞の1が「不定」冠詞としても用いられていることを考えれば、そういう発想に納得がいかんこともないんだが・・・。

チェㇷ゚・アスパ・ワ・アエ・ロ
cep asupa wa ae ro!
魚を煮て食べようよ。

 「cep poronno」が出た後で今更なんですけど、名詞の複数形はないんでしょうか?
 「supa」は「suwe」の複数形で、アイヌ語の動詞複数形の多くは「-pa」で終わるそうです。そのワリにはこれまでに出てきた例は多くありませんが、まぁこれから頻出するんじゃないでしょうか。語彙の効果的な習得をさせることを意図して文を構成するなら、不規則に複数形が形成されるものの方が、学習の最初に出すものとしては適当でしょう。「...である」や、「持つ」が色んな言語の学習書で最初の方に登場していて、且つそれらの活用が不規則である場合は、その汎用性の高さのみならず、早めに習得してもらうことを著者は考えているはずです。たとえばアルバニア語、バスク語の本はドンピシャでそういった構成です。特にバスク語では、活用と共に覚える必要のある動詞は、未だにコピュラ・izanと「持つ」にあたる「ukan」、それから「行く」にあたる「joan」、「来る」にあたる「etorri」しか出てきていません(最後2つは分詞としてしかブログで出したことなし)。分詞として使う動詞はすごく豊富ですが・・・。これだけでもバスク語の特異性が窺えるというものです。まぁ、編集にもよるんでしょうけどね。
 「rap(< ran)」などのように、複数形で「-p」を語尾に持つものは「移動を示す自動詞」に限るそうです。少ないので暗記せよと一覧表で示されてました。

ス・クフライェ・クス, チェㇷ゚・エフラィパ・ワ・エトゥィパ・ワ・ヤㇰ・ピㇼカ
su kuhuraye kusu, cep ehuraypa wa etuypa yak pirka.
私は鍋を洗うから、きみは魚を洗って切ってくれ。

 ありゃー、そういやこの文章では人称代名詞を用いての主語の強調がありませんね。安易に知った気になるのは危険ですね。当たり前ですが。
 「su」が「鍋」で、その発生はなんとなく「suwe(supa pl.)」と関係がある気がします。というか、いずれかが同語源の派生語であるなら、suweがそれにあたると考える方が自然でしょうね。
 さて、「鍋を洗う動作」が「huraye」で、「魚を洗う動作」が同じ動詞の複数形・「huraypa」で示されています。
 これも既に書いたことですが、他動詞で表す複数回の動作は「複数形」として用います。動詞が複数形になる際の条件としては、これまでの全言語の学習を通して初めて見たものです。
 ただちょっと気になるんですが、「鍋をゴシゴシと手を何度も往復させて洗う」動作は単数形を以っての表現で適当なんでしょうかね。「魚は何匹もいるので・・・」と説明されているんですが、となると対象が複数である場合に動詞の複数形が使われるということになりますが、「動作を何度も繰り返す」から「huraye」は「huraypa」となっていると付け足されているということは、動詞が複数形になる条件は「対象が複数である場合」だけではないということを意味する筈です。
 うーん。「何匹もいるので」でとまってれば「su kuhuraye」という表現に100%納得がいったんですけどね。或いは俺が日本語を曲解しているとか。難しいな。アイヌ語じゃなくて日本語が。
 「tuypa」は「tuye」複数形で、ここで注目すべきは文法的なことでなく、弟が魚を正しく洗って切ることができることでしょう。俺にゃムリです。やったことないからですが。「切る」と言われているだけであって、「さばく」は含んでいないんでしょうかね。
 「yak pirka」で「...してくれ」という成句です。単語毎に見ると、yakは「...すると」、pirkaは既述の通り、「良い」です。つまり直訳は「...するとよい」になりますね。なので、和訳では命令を示しているのに、アイヌ語文章の方では動詞が命令形(と敢えて言います)として使用されていないわけです。
 そして5課、6課の終了なわけです。
 アア・・・頭疲労困憊。
 タミル語で新しく覚えたこととかも書きたいんだけど、今日明日じゃムリかな・・・。

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