2011年8月12日金曜日

具体物に形を変えた災害

 ここ京都・五山の送り火に使えと岩手県から木の差し入れがあったそうだ。
 汚染はなかったそうだがそれでも一応の危険性を鑑み木は使われないことに決まりかけた。
 それに岩手の連中が非難囂々。
 どういう意図があったにせよ、結果的に京の人間を汚染仲間に引きずり込もうと目論んだと言われても文句の言えない、最低最悪の自己満足の表れである。
 セシウムの検出はなかったとはいえそれでも何かあるかもと考え多少の恐れを抱くのが普通。
 まさに木の採れた地の人間は放射性物質に対し日々絶望的な無力感を抱きながら過ごしているのではないのか。
 人体に有害であり簡単に除去もできない。目にも見えないし、そもそも得体が知れない。
 本質を知る努力をせよと言うのは簡単だが、「何か有害らしい」と一旦耳に挟めば言葉の形成に用いられている横文字列の違いなどそっちのけでこの事件に関係して報道される放射性物質はすべて忌避したくなってくる。
 被災地の人間の気力向上を図って結果的にいらぬ被害を他の場所へと拡大させることになって岩手県の連中は後々なんらかの責任がとれるというのか?放射性物質は体内に取り込んでからでは遅い。
 東電による諸々の損害を被り憐れみと励ましを頂きたい思いに責められる理由はないが、被災地から何かを外へと出す際の許可に対し大きな責任がその地の人間にある今、食料だけでなく汚染されている可能性のあるあらゆるものは、具体物に形を変えた災害である。
 その地に留め置くことも可能なのに、己らがよく知っている筈の危険性を軽視し他所様に笑ってお裾分けし、気に入られなければ怒(いか)る。
 自己満足でなくてこれをなんと言うのか?
 俺は一旦使用の中止が決まった際、京都の人間は情に流されない完璧な決断をしたと思った。
 しかし謂われなき非難とお門違いな被害者感情を盾にした圧力を受けて結局木は使うことになったそうだ。
 これで万が一京都の地に何かあったとき、一体全体岩手の連中はなんと言ってくるのだろうか?
 もう何を言っても質の悪い言い訳にしかならないことが定まっているから、少なくとも責任者は逃げる準備でもしていた方が利口だ。

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